黒の時代編 | ナノ


▼ 対象者Dの心境

常軌を逸した平凡、或いは恐ろしく向う見ずな莫迦。

私が名前に抱く印象である。

名前は一見、いや二度見三度見しようと何処まで行っても普通の女性だ。

だのに怖い物知らずなのか只莫迦なのか。
恐らく後者だろうが、その平平凡凡な風貌と思考からは考えられないような、信じ難い行動を簡単にする。

先程の首領に対する態度が良い例だ。

合理主義と冷酷無惨の化身のような、正体を知れば百人が百人畏れを抱くあの首領を、まるで近所の知り合いに話しかけるが如く森さんと呼ぶ。

それだけに飽き足らず、そんな首領に先約が入ってしまったことをまるで友達に謝る口調で指を弄りながら申し訳ないと何でも無いように夕餉の誘いを断った。

しかも狡猾に次の約束を取り付け、終いには愛を叫ぶ始末。

正直、首領の誘いを名前に出されるのは誤算だった。
首領が誰かを食事に招待するなど、取引、契約の取り付け、何等かの駆け引き、そして報復以外には有り得ないからだ。

いい年して幼女趣味があるとはいえ、立場上は勿論、このポートマフィアの頂点に君臨する男の誘いを断るなんて命知らずという言葉では済まされない。
極論言ってしまえば死に値する無礼だ。

にも関わらず、一番理解出来ないのはそんな図々しい名前を良しとして赦す首領である。

あの位の女、首領ともなれば掃いて捨てるほどいるだろう。寧ろ合理主義を通すなら見目麗しい婦人の方が少なくとも目の保養になるというもの。

しかしそれを全て差し置いて、向けられる名前への視線は手の掛かる子ほど愛おしいと言わんばかりに甘美だ。

でも、その中にある捕食者の様な鋭い眼光を見逃さなかった。
一体何を狙っているのか。本当に、食えない人だ。

朝、名前の携帯から連絡先をもらったときに、過去の連絡履歴を見たがそこには何もなかった。
まだ支給されたばかりだからかもしれないが、期待したような秘密裏の首領との掛け合いも見受けられない。

事務所からあまり出ず、店も何も知らない名前の腕を引いて連れて行くのはこの前の定食屋。

お金が無いと云う名前の為に仕方がなくこの御店にした。

本当は横浜の一等街でも有名なイタリア料理店に連れて行こうと考えていたのだけど、まあいい。
それはまた今度としよう。

品書きを流し見てから、名前を見ると其方は決まったのか、取りあえず彼女に合わせて無言で頷いた。

彼女の食べる姿は実に食欲がそそられる。

まるでその食べ物を如何食べれば一番美味しそうに見えるのか、凡て把握した上で食べているかのように。
それを計算してやる業界人は多々いるが、名前の場合は天性の授かり物だ。物が違う。

彼女と一緒の物を頼めば箸が進むことにまず間違いはない。

………では、逆に下手物を食べればどのような反応をするのだろう?
今度食べさせてみるか。心の内に新しい悪巧みを考えた。

名前がきょろきょろと周りを見渡し店員を探す姿が見えたのだろう、声を出して呼ぶ前に店員が駆け付ける。

なかなかの美人だ。艶のある茶色い髪は一つに括られ、覗く白い項が美しい。
勿論顔も申し分なく、一緒に心中してくれるならこの上ない美人である。


………が、如何してだか気乗りがしなかった。


この太宰治が自殺に対して熱意を失うなど、在ってはならない事である。

―――――ふと名前が目に入った。

別に見れない顔という訳じゃないが、だからと言って特別綺麗という訳でも、息する事も忘れてしまうような美貌を持ち合わせる訳でもない。

けれど、何故だか惹かれる。悔しいが。

…らしくないとは心底判っている。
しかし初めて会ったときに向けられた、氷の刃の様な、混沌とした闇を刳り貫いてそのまま嵌め込んだ様な吸い込まれるあの瞳が、未だ忘れられないでいる。

今と同じように向き合って座り、睨み合ったあの日がつい先日の事のように思い出せる。
矛盾が生み落とした様な存在である名前に対して、反論を聞くのも面倒だと頭ごなしに自分が持つ確信に近い疑いを叩きつけたのだ。


―――結果、今まで出会ったどの捕虜よりも早々に音を上げ、降参した。


むしろ隠そうとする姿勢すら見受けられなかった気がする。

しかしその顔は敗北や絶望、焦燥などとは程遠い、どこか挑戦的な笑みを浮かべていた。

踏ん反り返って腕を組んで嗤い、自棄になったのか高が切れたように荒唐無稽極まる話をしてきた。


―――――自分は未来から来た、と。


何とも信じ難いことを話す名前の顔には相変わらず不敵な笑みが張り付き、その二つの眼光からはぎらりと強い意志を感じさせる。

それらと目が合った瞬間に背筋に微かな震えが走ったのを今もこの身で確り覚えていた。

あの日、初めて会ったあの日と、同じ瞳。

他者を寄せ付けず、踏み入れさせない。
心の内を開けっ広げにしているようで核心には誰も触れさせない、覚悟の強さを宿したあの瞳。


彼女は嘘を吐いている。


それは彼女のほんの僅かな仕草、口調の変化、声の震えから直ぐに分かる事だった。

しかし同時に、彼女も嘘がばれるという前提がある上で話していることが見て取れた。

平凡は平凡なりに考えたのか、苦しい部分はあるものの辻褄は合う。この馬鹿げた話を嘘だと云うには残念ながら情報と根拠が足りない。

交渉などの駆け引きに置いては、感情的になった方が確実に負ける。
仕方なくその日は其処で身を引いた。


名前は何を隠しているのか。


嘘がばれると分かってまで、一体何を隠したい。


その嘘は、

名前が大事に持ち続けるパンドラの匣は―――この息が詰まるような世界で、私を楽しませる玩具箱に相応しいものか?


それは未だ分からない。

だが、面白いよ名前。
一先ず暇つぶしには合格だ。

注文した生姜焼きが卓に運ばれ、腹の虫が好む香りが漂う。

合唱する名前を流し見て、自分は箸を取り、味噌汁を手に取った。
そのまま口に運ぼうとすると、名前に止められ、寸でまで来た味噌汁を惜しく思いながらも口元から離す。


「何?」

『いやいや、なに?じゃないでしょ。ほら、食べる前に言うことがありますよ、ささ!』

「は?」

『じゃあ心優しい名前さんから大ヒント!私が今さっき云った言葉は、なーんだ?』

「悪いね。君の事なんてゾウリムシの毛ほども興味無かったし、なんなら小蠅が耳元で飛んだのかと思ってたよ」

『ははっ。小瓶に入った七味、全部そのもちゃ頭にぶち撒けるぞ手前』


一般的思考の螺子を何処かの溝に捨ててきたのかと思えば、変な処で常識に五月蠅くなる。

自分でも読めないこの自由奔放さは計算された上で演じているのではなく、踏み付けても劇薬を撒いても何度だって蘇る雑草のような性根の賜物だという事が嫌でも理解させられた。
断固として譲らない名前が面倒で、本当に此方が云うまで食べさせる気がなさそうだった為、渋々手に取ったばかりの箸と味噌汁を置き、合唱する。

が、いざ言葉を発しようとすると何故だか途端に気恥ずかしくなり、唾を吐き出すより早く頂きます、と呟いた。

満足げに笑う名前が至極腹立だしい。

此の儘遣られ放しは性に合わないので、気になることもあるし名前に質問をしよう。
名前が生姜焼きを口に含んだ瞬間、その機会を狙って口を開く。


「名前は首領を好いているのかい?」

『んぐっ……!』

「止してよ。汚い」


予想通り喉に生姜焼きを詰まらせた名前はお茶を飲んで流し込む。

苦しかったのだろう。
若干涙目になって苦しそうにしているのが大変愉快極まりないが、吐き出しそうになったことに対して嫌悪感から冷たい視線を向けた。

まあそう差し向けたのは何を隠そうこの私なのだけど。


『ふいー。何ですか藪から棒に。最近ポートマフィアでは恋バナでも流行ってるんデス?』

「おや、既に聞かれてた?」

『対象は違いますが、貴方の相棒さんに』

「え………………あ、あの帽子置きのこと」


自分の相棒と言われ頭にその人物は直ぐ浮かんだものの、その名前を直ぐ言うのは気に食わず、わざと思い起こすまで数秒掛かる振りをした。

……正直名前も呼びたくない。
自分で名付けた代名詞さえ云うのが疎ましい。
折角の料理も味気なく感じてしまうというもの。

しかしそう言われてみれば、前に中也は名前とエリス嬢の護衛任務という名の買い物付き添いに行っていた。


―――――どくり。


何か黒い感情が湧き立つ。

嗚呼苛々する。
特別な理由は無いが腹の立つ事この上ない。

首領だけに留まらず、中也にも尻尾振っちゃって……。嗚呼、気に食わない。

大凡地位と名声がある奴なら誰でも良いんだろう。

首領も、中也も、私とてそういう尻軽女は何人も見てきた。
そして利用するだけ利用して、飽きたら後はぽいっと可燃ごみのように捨てる。

変わらない。
他の奴等と名前だって何も、変わらない。

此方が微笑みを振り撒いてさえいれば、後は何もせずとも向こうから寄ってくる。

女なんて、身体を摺り寄せて媚を売り、在り来りな甘い言葉を吐いて此方の顔色を伺い、自分がまるで優位に立って駆け引きが出来ていると自惚れる生き物だ。

そして自分を完全に手に入れたと慢心する女ほど、いざ此方が必要ないと見限ったときに全てに絶望したような、裏切られた様な顔をする。


でも、その顔をするのは間違っている。


何故なら此方は、一度だって心を寄せたことは無いのだから。


――――その、筈なのに


「へえ……そいつは耳寄りだ。で、誰のこと?」

『…あんたン事デスよ』

「だろうね!まあこっちは君みたいなへちゃむくれ、願い下げだけど」

『……かっちーん。やっちまったね太宰くん。名前さん、完全に鶏冠に来ちゃったヨ。私の方こそ貴方みたいな本体が包帯だか何だか分からんような男、お断り、デス』

「云うじゃないか!貧乳のちんちくりんのくせに」

『あんだとこの甲斐性無し』


名前は他人の顔色を伺うどころか、見ようともしない。

人間は無意識下で他者からの自分を見て、己を判断することが多い。
なのに名前の場合、寧ろお前が私の価値観に合わせろと、まるで暴君と呼ばれた何処かの国王のようだ。彼女の場合は女王、か。

………だから、如何してそれが気楽に感じるなんて、そんなこと、ある訳がないじゃないか。

まるで自分が持つ絶対に誰にも見えない筈の心を、見透かされ暴かれてしまう様な変な焦燥感に駆られる。

でもそんな此方の様子には気付かず名前は続けた。


『あーあ、中也さんはそんな下劣な事一切言わずに優しくしてくれたなあ!二人で食べ合ったクレープ、すっごく美味しかったなあ!』

「食べ合った…?」

『………ナ、ニ、カ』

「…いーや。何も」


ギギギッと錆びついた機械のようにぎこちなく此方に視線を向ける。

クレープを食べ合った、ということは、つまりはひょっとするのかもしれない。
それ以前に、何故中也のことは普通に名前で呼んでいるのに、私の事は未だ苗字で呼んでいるのだ。


……巫山戯るな。

私を、見ろ。


中也でも、首領でもなく、目の前に居るこの私に、意識を集中させろ。


――――どくり、どくり。


生命を宿した様に波打つ黒い感情は、芽吹きの時を待つ。

今は未だ、これに名前はない。
この黒く渦巻く感情に名前を付けるには未だ早い。

どうせ最後の締めに取って置いたのだろう、更の上で少し寄せられていた浅はかで愚かな名前の最後の生姜焼きに箸を伸ばした。

止める言葉を無視して口に入れ判りやすく咀嚼し、そのまま飲み込むと絶望の淵に立つような表情にひどく優越感に浸る。

許さないとばかりにキッと睨みつけた名前はまた、私と同じように先程わざと残した食べかけの生姜焼きを素早く箸で掴んだ。


それが罠だとも知らずに。


さっさと食べてやる、と生姜焼きを取ることに考えが一杯で愚かな名前はそれに気づかない。

名前の白く細い喉が僅かに上下する。

その様子に、恍惚として魅入った。
表情にはまるで驚いたような顔をだしながら。

飲み込むのを見ると、それと同時に先程まで自分の胸に巣食っていた黒い感情はさっと蜘蛛の子を散らすように消えていく。
確り飲み込んだのを確認してから、気後れした様に口を開いた。


「あ、それ…」

『あー美味しい!私から食べ物を奪おうなんざ、百万年早いんだよ小僧』

「私が食べかけていた奴なのだけど」

『……』

「これって、関節キスだねえ」


得意げに笑う名前へ事実を突きつければ、その顔は一変して愕然とする。

嫌いな私との関節キスなど、君にとっては屈辱の極みだろう。


私とて、君など、大嫌いだ。


そう。
これはただの嫌がらせに過ぎない。
自分に言い聞かせるのすら嫌だったが、そうでもしないと揺れる心が予想外の場所に行き着いてしまいそうで、無理矢理それを押さえつけた。





残りも全て食べ終わり、会計へと席を立つ。
前を歩いている途中ぐるりと後ろを向き、名前に微笑んだ。


「じゃここは宜しく」

『あいよ』


…………は?

文句を云いつつ突っかかってくるか、将又奢ってと縋り寄るかと思えば、名前は言われずとも、と普通に鞄から財布を取り出す。

ここは普通、男に奢って貰うものだろう。
いや、その筈なのだ。

加えて、先ほどお金が無いと言っていたのはどの口だと寧ろ此方から怒鳴りつけてやりたい。

それを、然も当然のように財布を鞄から出して。

唖然とその様子を見ていると、その視線に気づいて名前も眉間に皺を寄せて此方を見た。


『え、なに?』

「…君は本当に男慣れしてないね。まさかとは思ったけど、予想以上だ」

『はァん?』


あの時は冗談半分で言ったつもりだったのだけど…まさかこれ程とは。


「ここは普通、男に奢って貰うものだよ」

『いやだって、この前奢ってもらいましたし。ここぐらいなら払えますよ?あ!若しかしてェ、太宰ちゃん私のこと心配してくれるんですう?やっさすぃー。んじゃ、ここはその御慈悲に甘えて』

「外で待ってる。寒いんだから早くしてよね」

『って聞けや、おい』


文句を垂れる名前の言葉を遮るように引き戸を閉めた。

別に奢られる必要など全くない。なんならこの店丸ごとだって買える財力が、自分にはある。
それに見合う仕事を、物心付いた時からしているのだから。

嘘でも甘い言葉の一つや二つを吐き、自分に媚び諂えば、こんな大して高くもない店の会計など出してやるのに。

………嗚呼、調子が狂って仕方がない。

会計を終え、店から出てきた名前が駆け寄る。


『どしたん?心中でも断られました?』


莫迦だよ、本当に君は。

何も知らないで。

奇妙奇天烈で、自己中心的で、傍若無人で、救いようのない莫迦。


でも――――――


まだ、ほんの少しだけ―――――


「…二件目行くよ」


帰りたいと云う名前の肩に腕を回した。


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