Etoile Filante | ナノ
Six [7/13]
  ひさかたの夜雲は何時の間にか空を覆い、宵の色は深みを殊更に強めていく。
  暗闇のタールで塗られた煉瓦の道を一心不乱に駆け抜けて行くのは一人。前髪が揺れてうっとおしかったが気にする時間も惜しく、息継ぎすらもおざなりで、たった一人の男は只管前へ前へと足を動かしていた。

(いと!いと!いと!)

  ビュンビュンと聞こえる風の音。耳の傍で掻き鳴らされても男は尚もつむじ風の様に赤い煉瓦の街を目指す、その姿はまるで一つの弾丸の様だった。青二才じみた焦りは脈を強く叩きつけ、硬く握り締めた右手は汗でじっとりと湿っていく。
  ありったけの、様々なかたちをした感情は己でも佇ちすくんでしまいそうになる程膨らんでいたがそれでも。この男が足を止める事など一切無かったのだった。もどかしさ、この胸苦しさ。これが愛しいというかたちの感情か。

(おまえにあいたい!今すぐに!)

  哀切で塗り込められた男の眼差しは剣の切っ先に似て、ひたと街に充てがわられていた。淡あわしくも甘やかな面差しの、愛しいおんなの影を見つけるのだと望む強く強い感情であった。優しいいと、出処もわからない隻腕の男をあたたかく迎えいれてくれたお人好しの女。全てをくれと望む、その強欲な願いを美しい涙を見せて受け入れてくれた最上等のおんな。イイ歳の男が我を忘れておとぎ話から攫ってしまう程の。

「いと…っ、」

  いとが死ぬ?儚くも消えてなくなってしまう?冗談じゃない、誰がおれからいとを奪っていいと言った。いとはおれの腕の中にいればいい、怖い事からも痛い事からもおれが全部まもってやらなきゃいけねェんだよ。そう、しなけりゃいけなかった。
  だから、だから、

「いと!どこだ!」

  張り裂けるのでは無いかという渾身の力が篭った大声は、唯一のおんなを求める切望でかたち作られている。
  目指すのは宿、病院、と教えられた。ならば目に付く場所からと、鬼気迫る男はビリビリとした気迫を纏った男は最愛のひとの名前を宙に刻みながら暗がりの大通りを抜けていったのだった。
  雲は切れ間が出来ている。
  星が、見える。
  いいとか、悪いとか関係なんぞあるか。愛しいいとをこの腕にいだけるのなら、いとをまもれるのであれば。



  




  己の背中には透明な、色も熱も無い絶望が迫っている。

「…ぁ…。」
「いと、待て。」

  ランプで照らされた部屋は天井の隅だけが暗かった。
  目覚めて身じろぐいとを片手で制したのは酷く顔を歪めたエースであった。痛ましさを溢れさせてしまった声は頼りない。余りにもエースの方が苦しそうに見えてしまっていとは思わず、心配げにきゅうと口を真一文字に結んでしまったのだった。

「輸血、してるから、あんまし動くなよ。」
「ゆけつ…?…ぇ?」
「ほらこれ、」

  エースが遠慮がちにすっかり冷えてしまったいとの片手を軽く掬ってやると手の甲には白い脱脂綿がひとつ。テープで押さえられているそれからは一本赤いものが通った管が上の方に伸びていた。管をのたのたといとが見上げれば無機質なパックが鉄柱にぶら下がっている。

「目ェ、覚めたか?おれが誰か…わかるか?」
「…、」
「いと。」
「…エースさん、私…、」

  矢継ぎ早に問われて、いとは瞬きを繰り返してしまう。あやふやな夢路から抜け出たばかりの彼女はふわふわする思考のままエースさん。とだけもう一度口にするのだった。

「シャンクス、の、ゆめ…みてて、」
「…そっか。」
「変なこと、…言ってるかも…」
「いや。」
  
  そういって、首を横に振ったエースはひと心地ついた様に大きく深呼吸をしたのだった。

「急に体が冷たくなっちまって。慌てて医者のじーさん呼んだら輸血するって決まったんだ。起きてビックリしたろ?」
「ありがとうございます…何から何まで…。」
「ばっか、気にすんな。起きたらじーさんが呼べってったから行ってくるな。」
「…はい。」

  ん。と一声だけ漏らしたエースはいとの頭を控えめに撫でると、椅子から立ち上がり足早にドアを潜ったのだった。
  パタンと扉が閉まってしまえば輸血の雫が落ちる音だけが響く、静かな世界が出来上がっていた。

「…ごめんなさい、エースさん…。」

  宙に投げた言葉を受け取る人がいないと分かり切っていっても、いとはいたたまれなくて呟いてしまう。輸血している手を気にしながら体を捩ってゆっくりと上半身を起こせば、途端に襲ってくる目眩に慌てる。
  こんなに酷い目眩など生まれて初めてだ。

「…っ、ぅ…」

  自分の体だと考えられないまでの違和感にいとは自分で自分を抱き締める。どうして?と悩もうとしても頭は目眩で靄が掛かってしまったらしく上手く働いてくれない。

「…シャンクス…。」

  ゆるゆると膨れ上がる恐怖にいとは小さく震え出してしまう。こんな時に真っ先に思い浮かべるのは、矢張り赤い髪の少年であった。
  身を粉にしてまで助けようとしてくれるエースに余りにも申し訳無く、しかし頭で考えるよりも心でシャンクスという存在を求めてしまっていた。
  自分で何とかしようとする勇気も力も無い、情けない女にいとは口をきゅうと結んで嗚咽を漏らす。パタパタと零れる雫でさえ、自分の弱さを見せつけてしまっていると感じて胸の内は苦しさに染められていった。

「…、」

  たった一言でいい。かの少年に大丈夫だ、と言って欲しかった。陽だまりに似たあたたかい声で、一言だけでいいからといとは何気なしに窓の外を見つめる。
  雲間からキラキラと星が見え、何処までも空は続いている。シャンクスのいる空と今自分がいるこの場所は繋がっているとわかっていても、その世界の広さを突き付けられている様だといとは再び涙を湛えていくのだった。

「シャンクス、シャンクス、」

  『彼方』にいた頃、彼はいつもすぐ近くに居てくれたのだ。底抜けに明るく、時々随分大人っぽい声でいとを翻弄して口付けを強請っては笑っていた。
  おもい返すのは笑顔ばかりで、気がつけばシャンクスにどれほど甘やかされていたのかわかった。『歳上』は自分の方だのにいつもシャンクスは自分を慈しんでくれていたのだ。
  あいたい、あいたい。
  いとはひたすらに一心にこいねがって、空と街を眺める。

「…ぁ…っ?!」

  急に一声漏らしたのは、どれくらい経った頃だろうか。
  エースが医者を連れて来た訳でも無い、陽が昇った訳でも無い。しかしいとは窓へと体を傾けしばし動きを止めたのだ。瞳は大きく見開かれ息をするのも忘れている様子だった。

「…っ!」

  掛け布団から脱け出すといとは輸血のパックと窓の外を交互に見返し、考えを一巡させると恐る恐る脱脂綿を剥いでいく。ぴりっとした痛みが手の甲を通ったがそれも一瞬で終わり、彼女は足をリノリウムの上へと降ろした。

「う、わ、」

  予想通りの立ちくらみがいとを襲う。ふわ、と来たかと思えばすぐにぐわんぐわんと脳味噌が振り回される感覚にいっそ吐き気まで覚えてしまう。必死にバランスをとって、そのままドアノブに手をかける。…靴を履くのを忘れてしまった。

「…まにあって…っ、」

  見えた、見えたのだ、鮮やかな色が、微かに。
  
「いとっ?!」
「エースさ、」
「ばかやろう!何歩いてんだ!」

  顔真っ白じゃねェか!と怒りでは無く、心底心配した所為で大声を上げるのはエースであった。医者に事情を説明して先に部屋に戻ってこようとしていたのだろう、いとが目指す出口に背を向けて顔を歪めていた。

「エースさん、外に、行かせてください…っ」
「出来るか!…針まで抜きやがって…っ、」
「でも…っ。」
「自分の状態考えろ…たのむから…。」

  絞り出す声のままいとに近付くとその細い手首を握り締める。低い温度にそら恐ろしさを覚え、足元に目を向ければ裸足であると理解した。何をしているんだ、と訳のわからない感情が込み上げてきてエースは喚きたくなってしまう。

「見えたんです、間違えたり、しませんっ。」
「いと?」
「シャンクスが、見えたんです!」
「…『シャンクス』…が…?」
「お願いします。腕を…はなして…ぇっ!」

  腕を握られていてもいとは懸命にドアの方へと進もうとしていた。身を捩って前のめりになり渾身の力を入れても所詮男と女、もとより弱り切ったいとではエースに敵う筈も無い。自分で充分理解している筈であろうに、それでも彼女は進もうとする。

「…あ…っ!」
「おいっ!」

  無理をしたのが祟ったのだろう、カクンと足の力が抜けていとはバランスを崩してしまう。幸いにも腕をエースが掴んでいたままであったから転んでしまう事は無かったのだが…いとははらりはらりと涙を零し、けれども決してドアの方を見る事を止めなかった。

「しゃんくす…」
「…っ、外、行ったら満足なんだな、いと、」
「エースさん…っ、」
「何にもなかったらすぐ部屋戻る、いいな。」
「は、い、」
「…ほら、支えてやっから。後、何か履け。」
「ありがとう、ございます…っ、」

  遠慮がちだったいとがこんなにも頑なになるなんて、とエースはたじろいで遂にその腕を離してやるのだった。替わりに細い体を凭れさせてやって受付横のスリッパを引っ掴んで彼女の足元に置いてやった。いとはありがとうございます、と一言述べ、緩慢な動きでドアノブを握ったのだった。

「…っ、」

  扉を開いた瞬間に一度風が大きく吹く。満天の星空に雲はなりを潜め、濃い瑠璃の空が広がっている。蔦が絡まる街頭が僅かに煉瓦道といとを照らして、時折ちりちりと炎が揺れる音を奏でていた。
  いとはエースから体を離し、よたよたと一歩、二歩と前へ進んでいくのだった。

「…。」

  前方から、暗がりの中を抜けて誰かが歩いている。
  ぬばたまの夜は男か女かさえも隠してしまっていたが、それでもいとは心を込めてその『誰か』に眼差しを向けるのだ。
  ためらいながら、それでもいとおしさで縁取られた言葉を紡ぐ。

「…シャンクス…?」

  ゆるやかな、か細い声はしいんとした街と星空に響いていく。泣き濡れた目尻も頬も夜風で冷たくなっていくがいとは拭う事も忘れ、ただひと所を見つめていた。
かのひとは、
あの、何よりも美しい色は。

「いと!!」

  男の声はいとの儚さとは真反対だった。
  切望の叫びはいとの声の残響にすら覆い被さり、辺りに轟いていく。
  声の次に現れたのは震える片腕。赤い、髪。ぬばたまから抜け出した男は灯りの中で小さなおんなの体を抱き締めていたのだった。それは足りないものを満たす様でもあり、あるべき場所を示すかの様にでもあった。

- 7 -

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -