Cinq [6/13]
苦しくて、息をするという行為でさえ難しい。産まれたての赤子が必死に空気を肺に詰め込む様にいともまた、ひゅうひゅうと胸元を忙しなく動かして酸素を求めていた。ベッドで横になり弛んだ涙腺は勝手に涙を幾つも作ってはじわり、じわりと枕を濡らす。涙に体温が混ざっているのだろう。泣き濡れる度に血の気は失われていく。
「…なんでだ。」
あるはずの空気に手が届かないもどかしさ、それは隣に佇むエースも痛い程感じとっている。ひたひたとそぞろ足でやってくるのは、この感情の名前は一言では言い表せず…男は苦虫を噛み潰したのだ。
『肺機能を正常にするお薬を注射したけぇな。暫く横になってもらって様子をみようかのー…。』
『助かるんだなっ、これでいと、大丈夫なんだよな…っ?!』
『軽い貧血も起しとるし…まだ何とも言えんの。』
『…とも、だち…なんだ、』
『おゥ、おゥ…一緒におればええ。』
小さな診療所は患者も疎らで、突然駆け込んで来たエースとぐったりとしたいとを迎え入れてくれた。処置を終えた医者は何か訳ありだと感じてくれたらしく奥まった個室をあてがい、今は静寂といとの掠れた吐息が部屋を包んでいたのだった。
「わけわかんねェ…。」
この男の酒酒落落の気質は今やどこへ。つい先ほどまで居た医者の言葉はもう、あやふやなエコーが掛かって男の脳裏で焦げ付いていた。
余りにも過ぎた急変だった、先程までは共にじゃれて笑い合っていたというのに。どうしていとは横になって苦しんでいるんだ?どうして泣いてるんだ?そればかりがぐるぐると反芻して疑問は空虚なリノリウムへと消えていく。現状に着いて来れていないのは己が一番よくわかる、ベッドの隣に突っ立ったままエースはいとを見下ろしていたのだった。
「エースさ、…すみ、ませ…ん…。」
ごめいわくを。風が吹いただけで掻き消えてしまう弱々しい声でいとは暗い面持ちのエースに哀切な響きを呟き、そして自分の身に降り掛かる理由もわからぬわざわいに慄き…耐えていたのであった。
「泣き虫で…すみません…」
「いいよ、謝まんなよ…」
時はとっくに正午を通り過ぎて、窓の外を走る子どもがおやつをねだりに母のもとへ駆けている。
腹も空かねば喉も渇かず、エースはひたと横たわるいとを痛わしさに満ちた眼差しを向けていたのであった。ほろほろと体力を磨り減らす様にして泣くいとは見ていられない。
「…シャンクス…、」
手を、伸ばそう。少しでも苦しさを和らげられるのなら、と男の節くれた指を動かそうとする。けれどもいとがうわ言で呼ぶのは己の名前では無く『かの少年』の名前であった。どんなに離れていようともその名前は繊いすじがねとなっていとの真心にぴぃんと通っているのだろう。
だからエースは、いとに触れる事叶わない。
「あいたぃ…、」
「…っ。」
誠実に泣きそうになるのはどうしてだろうか。
苦しさと、薬の副作用でいとは現実と夢うつつの境が怪しくなっていく。目尻に幾つも切なさの筋を作っては、生木を裂かれる様だった記憶をおもい出していたのだった。
海と空、その境目。色いろの洪水に紛れる愛おしい赤。離れて消えゆくおとこの温もり。
「しゃんく…す…」
「いと…、」
チクショウ!と叫べるものなら叫びたかった。
おまえが探している『シャンクス』はここにはいないんだ、いと、目の前にはおれがいるだろう。なんで頼ってくれないんだ!震える喉は感情の証だ。無理矢理押し殺そうとして、情のうちを掌に仕舞い込む様に努め硬く握り締める。
「…いと、しんどくねェか…?薬、効いてるか?」
いととの亀裂を埋め様とエースは漸く、ベッドの横に放ったらかしにしてあった簡素な椅子に腰掛けたのだった。彼女との距離は狭くなりいとのゆっくりとした呼気が聞こえてくる。
薬が効いていると思いたい。彼女の呼吸は静かになっていた。
「元気になったら、街を歩こうな。」
「…ぅ、ん…。」
「よし。ガレットとか甘くて美味そーなの買おうぜ?それで食べながら一緒に歩いて…それで、」
『シャンクス』を探そう、とは言えなかった。声帯が麻痺して鈍くなり言葉が詰まる。ぞっとする様な暗い淵が目の端に映った気がしてエースは一度ぎゅっと瞼を閉じてしまうのだった。
「どう、したの…?だいじょ、ぶ…?」
いとはひそやかに、静かに、繊細な心を眦に散らして男を見つめてくれている。しかしながらその瞳の光は随分と朧げで、揺れ続けては夢うつつに惑わされる陽炎の様な姿だった。
「…大丈夫。ごめん、いとは心配せずに体を休ませてくれよ。」
「ありが…とぅ…。…あの、ね。…わがまま言っても…いい?」
「なに?」
「手を…握って、欲しいなって…。」
「…それ、ふつうわがままじゃねェ。ほら、いと。」
ゆるゆると差し出されるいとの手。恐る恐る握れば遠慮がちな弱い力が込められた。爪さえ色を失って白い。エースはそのはかなさに心が揺さ振られてしまう。
「あったかい…」
「…、」
何時の間に、なんでこんなに冷えているんだ。
己の体温が常人よりも高いのは心得ているが、これは、余りにも。
「あったかいか?」
「ぅん…」
ひとのはかなさ、というものはこれ程までに狂おしいものか。エースは霙の欠片で出来た様な彼女の爪先をそっと撫でて、少し寝ろとだけ漏らすのだった。
いとはゆかしくも眼を閉じて、温もりに浸っていたいとはいよいよ眠気を覚え始めたのだろう。目尻をのろのろと指で拭ってうつつな夢路に足を踏み入れる目前であった。
「…前も…こうしたね…」
「…アァ…」
苦渋を塗りたくった溜息混じりの声をエースは吐いていた。
今から、おれは嘘をつく。
「片方しか手が無いから…その分、人より二倍温いって教えてくれたの…覚えてる…?」
「よく、おぼえてたな…」
「うん…らしいな…って、おもった、か…ら…」
違う。と言えなかった。己はポートガス・D・エースであっておまえがこい焦がれる『シャンクス』では無いとは。
朧げな眼差しは迷い子と瓜二つで、誰が誰かもあやふやになったいとはそのまま意識を深いところに沈めてしまったのだった。眠る瞬間に『シャンクス』と言葉を交わせた幸せをひとつひとつ胸に刻み、少しだけ微笑んでいた。
「おれなら、おまえをこんな目にあわせたりしないのに。」
決して揺るがぬ無垢に、エースは苦笑してそして静寂に身を任せたのだった。
何時の間にか陽は暮れなずみ、一番星がひと雫の涙の様に輝き始めていた。
「…お、帰ってきた。」
「ただいま。」
「…収穫は…なさそうだな。その顔色だと。」
「察しがよくて助かる。」
ひとつの色に塗り潰されているものではない、時に憂い時に自嘲しときにみずからを信じてもっとも愛おしいおんなを探すおとこが己の寝ぐらに帰って来たのだった。足取りは鉛さながらで心の翳りはどんな暗闇よりも濃色であった。これ程までに不機嫌な大頭を見たのは何時の事か幹部連中も声を掛けるのを憚ってしまう。
この場で声を発せたのはたった一人のみ。長く書庫に篭っていた所為で固まってしまった筋を伸ばしながら赤い髪の傍らに沿う。
「よォ。」
「不機嫌を引っ込めてくれるかお頭。」
「…努力はしてるんだが…。」
「ならもっと努めてくれ。」
「へーへー…」
「ったく…。で、だ。ニュースが二つある。…どっちから聞きたい?」
「おれの機嫌を損なわない方。」
「…火拳がこの街にいるそうだ。」
「あいつがね…。」
嘗て一度だけ会ったルフィの兄貴。因果な事があるもんだと背にしていた街の方角を一瞥したのであった。赤い街は藍色よりも色味深く、今はもう夜の帳に包まれていた。
「ま、縁がありゃ会うだろうさ。」
それよりも重きを置くのは矢張りいとを見つけ出す事。離れて僅かではあるが既に己はそのやわらかでやさしい姿かたちを求めて狂おしさに苛まれていた。
「で、二つめってのは?」
「あんたからすりゃ、旗に大穴ブチ抜かれるよりも最悪なお知らせだ。」
「これ以上最悪な気分にゃなれねェよ…何なんだ?」
「どうやらタイムリミットがあるぞ。あんたの後生大事なお嬢さんは。」
「馬鹿なおれにもっとわかりやすくご教授願う。」
「異海についての資料を粗方読んだが…」
異海の人間を発見し保護したという事例は幾つか残っている。そして殆ど例外無く短期間で死亡している。まともに研究が進んで無いのは研究対象がすぐに没しているからだ。
淡々と告げられる言葉に不機嫌すら忘れてしまった男は絶句するばかりであった。
「だいたい…三日前後。公式の記録じゃ、な。」
「…ふざけた話だ…。」
「原因は不明。ほぼ酷い虚血症状に見舞われてそのまま息を引き取っている。」
「…おれが『帰って』から今日で何日だ…?」
「今日で二日が終わるな…。」
「…最悪のリーチだなオイ…!」
体裁も建前もどうでもよいと、いとをいつくしみたい守りたいと焦がれていた。
己からいとを奪おうとするものすべてを許さないと、
例えそれがこの世の決まり事であろうとも。
それなのに今のこの状況はなんだ!ベンの話は、要は!何処かでいとが苦しんでいるという話だろう!足元をすくわれる様にして狂気が視界を支配する。
「いと!」
踵を返し今にも男はかの街へと駆け出そうとしていた。崖っぷちから奈落の底へ、捻じ曲がった感情はバキリと音立ててそのまま悲痛な叫びとなっていた。
「お頭待て!」
「うるせェ!!」
「リミットがあるなら闇雲に探すなっつってんだ。」
「…。…おまえの考えは…?」
ここは戦場かと、クルーは大頭とその片腕の男を戦々恐々と遠巻きに眺めていた。幹部達に暗にどうするのかと目線で訴えても黙殺されるばかりで特に若い連中達は情けない顔を晒していたのである。
「ここの治安はマシな方だ。ひょっとすれば病院か宿辺りに世話になってる可能性が高い。…貧血で倒れた女を探すなら数も限られてくる。」
海軍の屯所、とも考えられたが今この男に伝えるべきではないだろう。
「…最後に。これは出どころが怪しくてな、話すか迷ったが一応伝えておく。」
「…ンだ?」
「非公式の、辺鄙な島の…それこそおとぎ話だ。『異海で所帯を持った男が妻と子を連れて此方に戻ってきた。妻も子もその天寿を見事まっとうした』だとよ。」
「…そうか。」
おれも準備をしたら出る。先に行っててくれ大頭。
それを最後まで聞かずして赤い髪を翻し走り出した男はがむしゃらに最愛のおんなをおもっていた。
いとへのおもいは心に絶え間なく打ち寄せ続け、高まり、募るばかり。千切れそうな温度を再び結びたくて夜の帳に包まれた街をきつくきつく見つめていたのであった。
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