Etoile Filante | ナノ
Un [2/13]
  『此方』の世界で最後に触れたものは両親におくる手紙であった。つややかな手触りの封筒は厚みがあって、その厚み分には彼女の想いが溢れんばかりに込められていた。

「おいで、いと。」
「うん。」

  一度だけ撫でて、背中を向けてしまえば触れる事が許されるのはシャンクスただ一人だけだった。離すものかと物語るきつい抱擁に目尻が微かにそぼ濡れてしまい、それはあっさりと少年にばれてしまう。

「痛いか?」
「…少し。」
「そうか。」
「…うん。」
「でももう離せない。」
「うん、はなさ…ないで…。」
「離さねェよ。」

  両腕よりも熱い片腕の想いにいともありったけのおもいを込めて抱き締め返す。ときんときんと聞こえる鼓動に何方とも無く微笑んで、空から降る『彼方』へ至るの光の道を通るのだ。この愛おしさと、いきたい。ずっと。お互いの願いを重ね合わせて手を取り合った。
  
「行くぞ?」
「…はい。」

  一歩、踏み出す。じゃり、と聞こえたのはこの庭を踏む音。
  二歩目は、びゅうと風の音。砂利の音は消えていく。庭の緑はもう見えなかった。

「きゃ、あっ?!」
「…いとっ!?」

  眼下に広がるのは青、碧。そして波の白。三歩目は踏み出す地面が無くなってしまっていた。光は消えてあるのは青とシャンクスの色。そして風の荒らぎだ。狂った様なうねりはいとを拒んで押し返しているかに見えた。来るな、来るなと騒いでいる。髪も服も四方八方に踊り手が付けられ無い。

「しゃ、く、」
「手を、」

  風と色いろの洪水だった。揉みくちゃにされてちっぽけな人間の力など些末で頼りない。先ずお互いの体が離れ、寒くなった胸元に心臓が嫌な音を立てる。目を見開いた隙に指が一本、また一本と解けていった。愛しさは剥がれ、次の瞬間は宙だけがあった。

「いと!いとっ!」

  不安定に抱えていた所為、なのか、はたして。
  シャンクスの腕の中から最愛のおんなのぬくもりが消えていく。最後に焦燥と愕然に縁取られた瞳に映ったものは海の青と懸命に手を伸ばすいとの、姿だった。

「いとっ…!!」
「え…あ、どっからっ?!」
「な、おかしら、が帰ってきた…、」
「オイ!居たぞ!大頭、今まで何処にっ?!」

  碌に受け身も取らず半ば転がり落ちる様に降りた場所は見慣れた甲板だった。行方知れずだったこの船の主がいきなり空から現れたのだからクルー達の驚き様は筆舌に尽くし難い。それだけでは無い、慄く怒気…少なくともクルー達にはそう感じられた気迫を携えて初めて聞く名前を血反吐混じりに叫んでいたのだ、帰って来た赤髪の大頭は。

「いとっ、いと何処だ、返事しろ!いと!」

  甲板を見回したところであの優しさを湛えた彼女は髪の毛一本すら見出すこと叶わなかった。『元に戻った』のだ、背が低くて見えないなんてあり得ない。ぐるりぐるりともう一度周囲を眺めてから、焦るクルー達をそのままに船内に入っていく。

「いと!」
「おい好い加減にしねェか。『赤髪のシャンクス』、落ち着け…!」

  逆巻く気迫に静かな怒声が投げ掛けられた。低く、獣が唸る様にも聞こえる声に漸くこの海賊団の船長は歩みを止める。

「ベン、」
「事情を話してくれ、でないと助力もクソも無ェだろう…?」

  荒ぶる嵐の感情であっても湖面の静けさを持つこの男は、静寂に状況を見極めていた。ここまで焦燥を表す船長を見たのは何年ぶりか…いやもしや初めてかもしれない。原因不明の失踪と、かの『知らぬ名前』とどう因果が結び付くのかと眉間に僅かばかり皺を寄せるのであった。

「…クラバウターマン。ベンなら知ってンだろう?」
「おとぎ話としてな。」
「そいつが面倒見てくれてな、おれは最高のおんなを攫ったんだ。」
「それが『いと』…か。」
「おゥ。」
「どっから攫った?」
「ここでは無い何処かさ。」
「遂にイカれたか。」
「別の世界だって事だよ。」
「…おとぎ話だな。」
「その都合のいいおとぎ話からいとを攫って来た筈だったんだか…だが、ここに戻るまでに手が…離れた。」

  視線を落とした先にあるのは剣ダコの出来た右手だけだった。そこにあった筈の甘やかで柔らかい小さな掌は何処にも無い。

「おとぎ話の中に戻っただけかも知れ無ェぞ?」
「それは、無い。いとはこっちに来てる。いとの後ろに海が見えた…おれが見間違えるか、この海だった。」

  溜息混じりに呟いて白髪頭を撫で付けておもむろに煙草を咥える。確かに話にチグハグさを見受けられないがだとしたらその『いと』は何処にいる、という結論に辿り着く。この船の周りは島一つ無い広い海だ。グランドライン…その中で過酷と言って触り無い『新世界』で身一つで落っこちてしまえば海の住人達のいい餌だ。

「…、」

  騒ぐ感情を無理矢理抑える唸りの音が赤髪の男から漏れた。殺気立っているのは無様にも腕を離してしまった情けない己自身になのだろう。ベンは苦い面持ちを隠さずに固さを保ったままの船長を眺めたのだった。

「…、」

  無言の慟哭とはこれか、という程であった。重々しい気迫は『四皇』と慄くそれそのものであった。赤髪から覗く鋭い眼差し、その見据える先は木目の床で大穴でも開けたいのかと聞いてしまうぐらいに睨み付けていた。

「いと、」

  苦渋に塗れてしまった愛おしい名前を口にして、何処にいる?と喉を震わせる為にもう一度動かす、動かそうとした。

『あのこ…ここに、い…ないよ…。海に落ちてないよ…』
「…ガキの声…?」

  薄い幕の向こう側から響いてくる声に煙草を離して声を出したのは船長よりもこの男の方が速かった。きょろりと視界を一巡しても己達以外何も見えない。だが気配が…ある。

『島にいるよ…はや…く…』
「…わかった…すまんな『レッド・フォース』」
「…!…クラバウターマン、か。」
「おゥ。…助かった、恩に着る。」

  静かにそう呟いて一瞬目を閉じた船長は次の瞬間にはもう『よく知る』姿に舞い戻っていた。底の知れない、だが騒ぎの好きな子どもじみた男だ。

「ベン、ここいらで一番近い島は?」
「…『アイタオルック』、中々にデカイ島だな。」
「よし。進路はそこだ。」
「了解した…航海士に伝える。」

  副船長が見たものは矢鱈静かな我らが船長だ。
  ああ、そうだ。こんな顔の船長に関わる時は大概『大嵐』が起こる前だった。もう諦めたとばかりに溜息を飲み込んで大男は新しい煙草を慣れた手付きで取り出したのであった。








「…ここ、どこ…だろ…。」

気付けば知らない場所に、たった独りで立っていた。いとはたった独りで。…傍にいた筈の少年の姿は無い。
  鼓膜を揺らすのは青とも碧とも言える色をしたさざ波の音である。砂浜に打ち上げる波は穏やかで珊瑚で白く染まった砂を前へ後ろへと舞い踊らせていた。

「しゃ、んくす、」

  呆然としながらもぐるりと周りを眺めれば、水平線まで波を防ぐ為の物だろう…砂浜から昇りへばりつく様にあつらえられた赤茶けた煉瓦造りの壁が目に入る。更にその先をみれば同じ色をした煉瓦で出来た赤い屋根、その数計り知れず。壁は真っ白でこの砂浜にそっくりであった。大きな街だ、遠目に大きな建物が並んでいた。海の色と街の色のコントラストが呆れるまでに、美しい街だ。

「ここ…ど、こ、」

  道もまた煉瓦造り。足取り覚束なくも坂道をフラフラと登っていけば、蔦を模した街頭が整然と並び遠くの方から人の笑い声が聞こえた。呆然とそれを耳に捉えていたいとだったが、パチパチという音に肩を面白いくらいに跳ねさせてしまっていた。
  街頭の光が灯っていく。気付けばもう、陽は傾き煉瓦よりも鮮やかな色に変わり白い壁を照らしていた。

「…シャンクス…ッ、どこっ?」

  かたかたと体は震え出し、視界は忽ちに涙の幕でじわりと歪んでいった。声は情けないまでにか細くいとはそれでも懸命に愛しい『少年』の名前を叫ぶ。

「シャンクス、」

  海岸に沿った道をノロノロと歩いて、この街よりもこの夕陽よりも綺麗な赤を持つおとこの名前を呼ぶ。…いとには呼び、探す事しか出なかった。

「おねがい…へんじ、して…ぇ…」

  煉瓦に二つ三つと小さな丸い染みが出来て、それを捉えてしまえばもうその場に力無く座り込んでしまった。冷ややかな風は夜を告げるそのもので、彼女の心に暗雲を運んでくる。

「お嬢さん、どうした?」
「…ぁ…、」

  何時の間に、と口が動く前にいとは声のする方を見上げていた。人けなんて感じ無かったがここは有人の場所だから人がいるのは当然だと、頭の何処かで冷静に感じ泣き濡れた目元を慌てて拭う。

「…ひとと、はぐれてしまって…」
「おや迷子?かい?」
「…はい。」
「この島の人間じゃねェな、あんた。雰囲気が違う。」
「…は、い…」

  わかるものなのだろうか、『この世界の人間』では無いと遠回しに言われた錯覚にいとはただただ身構えてしまう。話しかけて来たのは当たり前だが見覚えの無い壮年の男であった。身綺麗で丸い髑髏のペンダントが首元からほんの少し覗いていた。

「おっと。」

  ペンダントを引っ掴み、服の中に仕舞った男はニカ、と白い歯を見せると彼女の手を引いてゆっくりと立ち上がらせた。そして街の方へと視線を向け、困っているならと話を切り出す。

「迷子なら海軍の屯所に行くといい。…道はわかるかい?」
「え、と、」

  上手く男から手を離せなくていとはたたらを踏んで言い淀む。海軍とは『彼方』の世界の自衛隊の様なもの…警察の様なものであろうか?だとしたら少々、いや大分に問題だ。探し人は、シャンクスは『海賊』なのだから。

「…迷子、ならわからんか、うん、そりゃそうか。」
「そ、うですね…でも、私…」
「困ってるんなら人の手を借りるのが一番だぞ、お嬢さん。無理すると碌な事起こりゃしねェ。」
「あ、でも…っ。」

  ぐい、と手を引かれてしまえば男の力にいとは敵わない。よろけながら一歩、また一歩と足は前へと進んでいく。

「あの自分で歩けます、から…お願いですから手を、はなしてください…っ。」
「…。」
「あの、…あのっ。」

  何かがおかしいといとが漸く気が付けたのは街頭を十も通り過ぎた頃だ。何時の間にか無言に徹する男にそら恐ろしさを覚えていく。

「そっち、何も無ェだろ?どこに行くんだよ?」
「…え、」
「んー…?」

  男の声だった。突然辺りに響いた第三の声である。
  逆光で姿は、見えない。けれどもシャンクスでは無い事だけはわかる。いとは更に体を固く強張らせてしまうのだった。
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