Etoile Filante | ナノ
Huit [9/13]
  片腕の中で涙を降らすいとをただ静かに抱き締めて、あぁいとはこんなにも小さくて儚いおんなであったのかとシャンクスは目尻の雫へと口付けを落とす。柔らかい香りは焦がれ求めた彼女そのものだった。あの家に居た時となんら変わらず、いとの心持ちを表したたおやかで…あえかな、己だけが感じる事を許されたいとを形作るものたち。
  その美しい涙。部屋を照らすランプはそのひと雫を光らせるばかりで、男の面持ちと眼差しを何処にも照らし出そうとはしなかった。

「いと、なァ、」

  静寂の病室ではいとがしゃっくりを微かに漏らすばかりで、男の声はしなかったのだが…突然エースがポツリと呟いた。エースの胸をよぎるおもかげの人は赤い影に隠れて見えない。それが酷く心をざわめかせては深底を掻き毟るのだ。透き通る声のいとを、
  そう、己は、取り戻したい。

「…わかんねぇ。」
「何が?」
「いとは餓鬼を探してたんだ。」
「そりゃ、おれの事だ。…さっき言ったろ。」
「『それ』がわかんねぇんだよ。なんで餓鬼になってた?なんではぐれた?そんなに大切ならなんで一人ぽっちにさせたんだ、なんでいとを泣かせた…?!」
「…。」
「こたえろ、」
「ぇ、すさん、あの、」

  抑揚の無かった声は段々と感情が煮えたものとなっていく。さび朱色の様な遣り場の無い怒りと悲嘆に肩を揺らしてしまったのはいとの方で、シャンクスの大きな背中から身を乗り出し、歪めた顔の男を恐る恐る見やるのだった。

「今までいとを守ってくれてたモンなァ。こたえなきゃならねェんだろうが…生憎おれは口が回るタチじゃ無い。…困ったな。」
「どの口がほざいてんだ、」

  演劇じみてゆれる赤髪に、睨みを強めたテンガロンハット。早口は眼差しと共に矢の様にシャンクスへと突き刺さるがはたして、かの男に効いているのかいないのか。

「あの、私が最初からきちんと説明すればややこしい事にならなかったの…私、の事情、説明しますから、」
「駄目だ、いと。」
「シャンクス…?」

  剣呑な雰囲気にすっかり身を竦ませてしまったいとはそれでもとつとつとシャンクスの腕の中から言葉を紡ぎ出していく。元はといえば自分が『違う世界』の人間でかなり特殊な方法で『こちら』に訪れたのだと説明していなかった所為もあるのだ、このややこしい状態は。
  しかしその声に覆い被さる様にシャンクスがいとを抱き込む。まるでじりじりとした灼熱でもって彼女を閉じ込め、逃がさない言わさないと暗に示していた。

「いとは、こうしていればいい。喋るな、しんどいだろう…?」
「でも、エースさんが、」
「いとはおれのおんなだ、」
「ん、ぅ…」

  がぷ、と大きな唇が降ってきていとの身動きを奪ってしまった。あむあむと上の唇をもて遊んで、ぺろりと今度は下の方を舐めた。最後にちゅ、ちゅ、と口の端に戯れる様に吸い付いて漸く離れる。そうしてポカンとしてしまったいとを先程と同じく抱き込んでしまったのだった。ユーモアで包んでそれっぽく微笑う癖に、この赤髪の瞳はゆらゆらと烈火が燃え盛っていたのだった。

「…っ…!」
「怖ェ顔だ。いとが見るもんじゃ無い、なァ。」

  どろどろに溶けた鉄を飲み込んでしまったかと思う程の、狂おしいばかりの痛みがエースを襲う。拳を爪が食い込むのを無視してきつくきつく握り締めたのに、痛みは何故か心臓を襲ってくる。
  触るな、離せ、と喉が裂けてでも言いたかった。けれど女々しく震える喉は不安と焦りに塗れた息を吐き出すばかり。

「…エース。」
「…、」
「睨むなよ。」
「…いと、離して、横にしてやれ。…辛そうにしてんのわかってんのなら、」
「…あァ、それなんだがな。いとはこのままおれの船に連れて帰る。」
「なっ?!」
「…ぇ…?」

  さも当たり前だろうとばかりにシャンクスは瞳を細めると、随分話し込んじまったなァと腰を上げ点滴が無いのをこれ幸いといとも一緒に抱え上げてしまう。驚きで目を見開いたエースに片眉だけを動かしてシャンクスはただ一言世話になった、と淡々と呟いた。

「いと、」

  咄嗟に腕が伸ばせずにエースは黒目だけを動かして、軽いサンダルの音に追いすがろうとするのだった。
  何故、己の足は動かない。何故いとを返せと声が出ない。生まれたての感情がぐるぐると脳みそを掻き回していくそのさまは苦しい。

「いと…」

  このまま進むか、踵を返すか…もう、手遅れなんてわかり切っているくせに。とっくにいとにおちてしまったというのに。

「わるいな。」

  音叉の様な声だけを残して、シャンクスは器用にドアを開けたのだった。いとは男のシャツをきゅうと握り締めて、どうしたらいいか何を伝えればいいかわからないまま…また涙を一粒落とす。

「いとは、何も言わなくていい。言えば、くるしい。」
「ぁ、」
「わかってる。」

  いとを見つめる時、同じ色を瞳に宿しているんだ。己と、かの若者は。わかるに決まっているだろう。最後の最後に振り向けば、問いかける舌を抜かれ只管に瞳の光だけを鋭くさせた面持ちとかち合った。…分かり合え無い事はぬばたまの暗がりから出た時から知っていた。
  そして己もまた、限りなく研いだ眼光の切っ先を男に突き出す。
 
「いとはおれといく。」

  それだけを吐き出して、シャンクスは歩き出した。腕の中で静かに凭れるいとはやはり痛々しいまでに体を弛緩させていく。時間が無い、無いのだ、と随分昔に言われた様な錯覚で相棒の男の言葉を思い出す。
  『所帯を持った』男の話、妻と『子』。その妻が生き延びたとなれば。子はかすがいとはよく言ったものだと、眉間に皺を寄せた男は歩く毎に足早となり遂に外に繋がるドアもくぐってしまったのだった。

「そういや、契りを交わすって意味もあるもんな…。」
「…?」
「いや、独り言…でもなかったか。よォ、ベン。」

  その声に眼差しだけで疑問を浮かべたいとの額に口付け、シャンクスは夜の帳の中へ声を投げ掛けたのだった。誰か、いるのかと彼女がそちらを向く前に、よく聞こえたと言葉が返ってくる。
  白髪の、険しい顔の男だった。大柄でがっしりとした体付き、傍に佇めば紫煙の香りがした。

「見つけたか。」
「あァ。…おれのいとだ。かわいいだろう?」
「惚気てる暇があんなら船に戻る事をお勧めするが。」
「はは、怒られちまった。…そのつもりさ。」

  あの病院に辿り着くまであちこちでボヤ騒ぎを起こした男をひと睨みした『相棒』は睨む代わりに溜息を吐いて、何をして欲しい?と目頭を押さえる。

「火拳が中にいる。…事情を説明してやってくれ。」
「…了解した。」

  それだけを言って長い足を病院に向けた男が動くのを待たず、シャンクスは再び足を寝ぐらの船へと向けたのだった。赤いアイタオルックの街は漆黒に染まり切り、微かに宿る灯りを横目に風を切る。煉瓦を踏み締め、その度にいとを抱く力を強めてしまう。星が一粒降り始めていく事すら、今はどうでもよかった。
  己の心がふしぎでしょうがなかった。守り慈しみたいという気持ちは本心である、偽りなどない。硝子細工を抱く様にいとのからだをかき抱きたいのに、己の魂の底がそれでは充ち足りないと騒いでいる。
  いったいどうしたいのかと思っている癖に、何をするかもう心に決め切っている。

「いと。着いたぞ?」
「…大きな、船…」

  騒ぐ仲間達に軽く二、三告げて(暫く…アァ、明日の昼まで部屋に近づかねェでくれ、そうだ、)足はそのまま自室の床を踏みしめる。
  逆上せ気味の頭の中身に皮肉った笑みを向けて、そしていとの唇に再び食らいついた。ふっくらとして甘い、何もかも蕩けてしまいそうになってしまう愛しいおんなのくちびる。綺麗なべに色の上と下。じいと、見つめておとこはゆるゆると目尻を下げた。

「大丈夫か、いと。」
「うん…。…あの、ここは?」
「おれの部屋だ。」
「シャンクスの…」
「いと。」
「なあに…?」

  熱っぽい声、というものはきっとこの声なのだろうといとが感じた次の瞬間には再びおとこの大きな唇が自分のそれを塞ぐ。声よりも熱いシャンクスの唇に考える力も、上下の感覚も消されてしまうかの様だった。

「あいしてる、ひとりにして…本当にすまなかった。」
「…ううん。あえたから、もう、謝らないで…」
「いと、いと…。おれが誰か…わかるか…?」
「…ぇ?…シャンクス、でしょう…?」
「そうだ、いとをどの世界でも誰よりも愛してる『シャンクス』だ。…だから、いと、」
「シャンクス…?」
「これから、おまえを、抱くぞ…?」

  次の瞬間に見えたのは暗がりの天井。そして赤い髪。
  やわらかくなっていく、おんなに熱を注ごうとするおとこの顔だった。
  
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