この人は自分が思っていたよりずっと、ずっとずっとロマンチストだった。
「行ってくる。」
「はい。いっておかえりなさい。」
うららかなお昼過ぎ、汀の棺船には男が一人乗っていた。見送るのは夕ご飯のメニューを考えつつ片手を振るなまえである。
「ケーキ頼んじゃった…ふふっ、」
話は……少々変わるが、このクライガナ島には商店民家その他諸々というものは存在していない、いや昔はあったのだろうが。少なくとも今は無い。なまえと先ほどの男、ジュラキュール・ミホーク二人しか『人間』は住んでいなかった。
船で小一時間、どんぶらこ揺られ揺られて隣の島へ。買い物はめっきりそこで済ます。だから今回もそこへ、そしてなまえにしては珍しく『おねだり』たるものをしてしまったのだった。
『子供っぽい?』
『いいや。健気で、随分と愛らしくみえる…しかし本当にケーキひとつでいいのか。』
『うん。』
男は、愛しい女を甘やかすのを最上の美徳だとでも思っている節がある。今日がいつもとは違う特別な日であれば尚のこと。欲しいものがあるのなら何でも言え、と囁かれたのはベッドの中(なんて事はない共寝をした日の出後なのだから当たり前ではある)で、ややもしてなまえは答えたのだ。
お誕生日のケーキが欲しい、と。
そして大層なまえに甘い男は船出して行ったのだ、帰りは夕暮れ前。日の沈む前には帰ってこられる。その間なまえは残りの準備をする、といっても自分の好物を作ったり少々のおめかしをしたり…まあその程度ではあるが。
(クリームシチューを作って、それから…そうだなぁ何を着よう。)
ミホークに前に買ってもらったシフォンスカートにしようかしら、それともあのイブニング・ドレス?ううん流石にそれは張り切りすぎかも。
そうだ、この間庭のガーベラが咲いたんだっけ。何本か花瓶に生けてみるのもいいかもしれない。
本番はさておき準備の方も楽しいなんて自分という人間はとても簡単な造りになっているのだろう。それも自分自身の誕生日で、なんて。
「きっとミホークがいてくれるから、なんだろうなぁ……。」
ミホークがおめでとう、と言ってくれるから自分はこんなにも今日という日に心躍らせているんだろう。彼が一言そう囁いて、穏やかに笑んでくれるだけで幸せで心臓がはちきれそうになる。
ただそれだけで、こんなにも喜びで満たされるのに!ミホークはもっと、もっとと自分を愛してくれるのだ、浮き足立つのもむべなるかな。
「今日、何回心臓が壊れちゃいそうになるんだろ…」
贅沢すぎる悩みをひとつ、呟いて。なまえはぱたぱたと足音を弾ませるのであった。
まずはエプロンを着けて、それから自分とミホークの好物をこさえるのだ。それととっておきのワインも蔵から出してこなくては。やることはたくさんあるのだ、どれもこれもいつもと変わらない仕草でも今日ばかりはどれもこれも妙に輝いてみえた。
そうして、時計の針は何週も回る。なまえの火照った頬が夕陽に染まって隠れてしまう頃になって四半刻もしないうちに棺の船は霧の島へと帰ってくるのだった。
「おかえりなさいっ。」
「今帰った。…また、これは…」
「わ、わ…!すごい、どうしたの、」
お互いにお互いを見て驚くなんてめったに無い。なまえは男が片手いっぱいに携えている花束に目を丸くして、ミホークは妻がいつもよりおめかしをしていた姿が眩しくて眼を細めてしまうのだった。
「こんなに大きな花束…すごい…」
好きだと言ったその花だけで、誂えた花束を差し出す姿は物語の一頁に佇んでいておかしくない、伯爵か騎士さながらだった。このひとは意外とロマンチストだったとなまえは幸せでできた涙を目尻に湛えてしまう。
「前にこの色が好きだと話していただろう?」
「うん…っ」
世間話のようにじゃれたやり取りでさえ、ミホークは覚えていてくれている。その事実になまえは驚きと嬉しさに心を満たされていくのだ。手渡されて両手はかの花の色に埋め尽くされてしまえば香りに包まれている気分になる。
きっとこの花弁とこの香りを見つけるたびに、今日のこの瞬間を思い出してしまうのだろう。
「ありがとうミホーク、すごく綺麗だねぇ。」
「あァ。美しいな、本当に。」
さて、誰がどれに対して囁いたのかは…定かではないのだけれども。ケーキの箱をもう片手に持つミホークは麗しの君の腰に空いた方の手を回し、城の中へと促してやるのだった。
髪を結い上げて、いつもより長い時間を鏡の前で過ごしたのだろう。そしてその瞳のいろ!淡く輝くその美しさが何よりおとこの心を逆巻かせるのだった。
「ミホークの好物たくさん作ったのよ。」
「…おれの記憶であれば、今日はぬしの誕生日だったが、」
「私の好きなものを作ろうって思ってたんだけど、あのね。」
「なんだ?」
内緒話をするように、小声になった妻に合わせてミホークも声のトーンを落としてやる。そうすればなまえはくすくすと微笑むと花束に頬を隠しながら小声で秘密のお話を始めるのだった。
「私、ミホークとずっと一緒だったから、好きな物も似てきちゃったの。」
だから、ミホークの好物たくさん作っちゃったの。と照れ笑いを浮かべるなまえは愛らしさで縁取られていた。
ああ祝うのは己で祝われるのはなまえであるのに、最愛のおんなを前にすれば喜ばされるのはいつも己ばかりだ。男はおとこの顔で口元に弧を描くとあまり食べ過ぎぬようにせねば、と軽い口調でうそぶいてやった。せめてもの意趣返しだ。
「作りすぎちゃったかも、です。」
「ケーキが食べれなくなるやもしれんぞ。」
「ふふっ、」
ぬしは食が細いのだから。
男のひとに比べたら、確かにそうだけど。普通だよ、私。
いいや。小さな体だから入らないのだろうと常日頃思っていた。
「ケーキ、一番楽しみにしてるもの絶対にいただきますよー。」
「それは何とも気合の入ったことだ。」
軽口を叩き合ったのは食事の用意が済んだ部屋の前。ケーキを箱から取り出したのは二人とも椅子に腰掛けた後。
まさかまさかこの世界一の大剣豪の口から『ロウソクも貰ってきたのだ。』なんて飛び出す日がこようとは夢にも思わなかった。手ずからミホークが小さなホールのケーキを取り出して、なまえによく見えるよう誂えてやる。
「食べるのがもったいないくらい。すごくかわいい…苺がいっぱいで。」
「それは重畳。」
赤い宝石そっくりの苺が真っ白なクリームの上に並んでいる。きらきらと輝いて見えて……。
なまえはこんなに可愛いケーキをこの偉丈夫が買ってくれたのだと思うと頬が緩んでしまう。今も片手にカラフルな細いロウソクを握っているミホークがどうしても可愛らしく見えてしまう。普段はずっと自分より冷静で年上の男の人とロウソクのあどけなさのギャップになまえは微笑むのだった。
…ミホークは早々に笑顔に気がつくと何やら知り物顔でくるりとロウソクをひと回しして、なまえだけにしか見せない微笑を口元に宿す。
「ぬしは今までこうやって誕生日を祝ってきたのか?」
「うん。懐かしいなぁ…家族でパーティしてこんな風にケーキ食べたりしたよ。」
「願わくば。」
「なあに?」
「なまえが幼い頃からこうして祝う事ができていたら、と思ってしまうな。」
ロウソク一本を摘んでミホークは苺の隣にさしていく。きょとんとしたなまえに目配せするとまるで、語り部のように朗々と男は声を紡ぐのだ。
「まずは、ひとつ。…赤ん坊の頃からぬしは愛されていたのだろう。さぞ愛らしかったに違いない。椛のような小さな掌で、無邪気な笑顔を浮かべて。」
ミホークはきっとなまえの面影を眺めているのだろう。懐古を楽しむのも、偶にはいいだろう。そう言ってまたロウソクを摘むのだった。
「みっつの頃は…そうだな、おぼつかない足であちこち走り回っていたのかもしれん。小鳥がいた、綿毛を見つけたと母御に言いにまた転ぶように走っていたと思えば……こちらが笑んでしまいそうになる。」
出会えなかった年月が長かった。戯言とは違う、本心から、もっとなまえと早く巡り会い珠玉の寧日を過ごしてみたいと切に願っている。
「十も過ぎれば…恋のひとつでもした頃だろうか。だが、おれの方がいい男だろう?」
「…うん、こんなに素敵なおじ様はミホーク以外会った事ないよ。でも。ねえ、どうしたの?こんなにたくさん褒めてくれるなんて」
それも小さな頃を思いはせて。ロウソクをさす度にミホークはなまえの成長にひとつずつ祝福の言葉を添えていく。
「出会えずじまいで、祝えなかった誕生日を今、ここで祝ってやろうと思ったのだ。」
過去には戻れない、だから言えなかった言葉を今全てなまえに伝えてやりたくなった。ぬしがあまりにも美しく微笑むものだからその仕草の全てでおれの心を粟立たせるものだから、おれも感極まったのだろう。
そう恥ずかしげなどこれっぽっちもなくミホークは言い切って、まっすぐに愛しい女を見つめるのだ。
「十五は、何をしていたのだろうな。」
「ミホーク…」
おれはな、おれと出会っていなかった頃のなまえですら愛おしいのだ。記憶の中で息づく姿ですら、愛している。だからこうして祝いたかった。
「み、みほーく、そんなにたくさん言われちゃったら…心臓こわれちゃいそう…っ」
すっかり恥じ入ってしまったなまえにミホークはまた柔い笑みを浮かべると、苺の様に熟れてしまった頬に手を伸ばし、そうして自らは体を寄せていくのだった。
優しくて柔らかい、それこそなまえの方がとろけてしまうような慈しむ口付けをひとつ、交わして。
おとこは、最愛のおんなへと祝福の言葉を贈るのだ。
「ぬしが生まれたこの日を心より祝福している。おめでとう、なまえ。」
ぬしが生を受けたその瞬間からずっとぬしを愛している。
光の粒で仕上げたような言の葉をまろび、ミホークは今度こそ深い深い口付けをなまえと交わすのだ。
ああ、なんたる至上の日。
最愛が生まれた、奇跡の日。