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パパのきゅうじつ

「このままだと労基に引っかかりますが。」
「……。」

そう告げられたのは木曜日の夜。最後の確認書にサインを書いた七時の出来事。淡々告げる坊主頭に、あァおまえは出来た部下だったな、と社長より社長のスケジュールに詳しい男を見上げてしまうのだ。
最近年度末の締めに追われて残業が続き、気が付けば新年度。
ここ暫く朝イチで出社してそれから夜更けて帰宅するサイクルだったと振り返る。双子とまともに話したのが随分遠くに思えて、寝顔ばかり眺めているばかりだった。なまえも自分と同じ生活サイクルをさせてしまっていたな、とため息をひとつ。
 ……我が奥方殿は気遣いばかりするもので。

「休むか。」
「そうですか。」

 最後のサインを終えて、観念したように唸った社長はオールバックを掻き揚げて早々に明日の予定を組み始めたのだった。
 ああ、帰り際に何軒か寄らねば。とそんな事をそぞろ考え万年筆を仕舞うのである。






「おかえりなさい。」
「あァ。帰った。」

 玄関を開けたのは、午後九時ちょうど。なまえがいつもの調子でドアを開けば珍しいものを携えた夫が目の前に佇んでいたのだ。

「わ、かわいい。」
「最近構ってやれなかったからな。」
「「パパ帰ってきたー!!」」
「おかえりなさーい。」
「パパうさちゃん持ってるー。」

 「みやげだ」と厳しい顔の真下でくりくりおめめのうさぎが二羽ほど双子を見つめていた。「どっちの色がいい?」と問えばなるほど、瓜二つのうさぎではあるがリボンの色が違う。ピンクとオレンジだ。

「ピンクがいい!」
「ピンク!」
「けんかしちゃだめだからね、かわりばんこ!」
「ピンクかわりばんこねー。」
「ねー。」
「オレンジちゃんも一緒にかわりばんこー。」

 手の掛からぬ双子であった。
 「パパありがとう!」「パパだいすき!」と賑やかしくもにこにこと大事そうに二羽を抱きしめて、ごっこ遊びのくわだてを立てていたのだがなまえは小さく苦笑いを浮かべてしまうのだった。

「もう遅いからまた明日。ね?うさちゃんもおねむだから一緒に寝てあげて?」

 いつもならそろそろベッドに入る時間だ。顔を見合わせていた双子だったが暫くして「「はあい」」とお返事をしてくれたのでなまえとしては大助かりだ。お休みの挨拶をすませて軽い足音ふたつは二人の部屋の中へと消えていく。

「ご飯あっためますから先にお風呂へ…」
「なまえ。」

 夫に背を向ければ名前を呼ばれ、続けて首もとに冷たい感覚が降ってくる。
 おとこの手だ、自分より低い体温の。驚いて背筋を伸ばしてしまえば喉が鳴る音が聞こえて続きざまに愉快に響く声がなまえの耳元で紡がれるのだった。

「おれが手ぶらだと思ったか。」

 奥方には何も無いとでも?と言いたげになまえの胸元で小さな光がちかちかと揺れていた。視線を向ければシンプルなネックレスがライトの下で輝いていて、あぁ本当にこの旦那様は手抜かりひとつしない男だと、まざまざと見せ付けられた気分になるのだ。全面降伏、いつだってこの歳上の旦那様は自分より何枚も上手だった。

「ありがとう、ございます。」
「ここ最近手間をかけた。その詫びとでも思っていただきたい。……で、だ。奥方殿。」
「はあい?」

 後ろから腕を回されて、太い二本は胸元に絡みつく。背中いっぱいに男の体温で覆われてしまえば心臓はどきどき騒ぎ始めるのだった。もう思春期という歳でもないけれど、相手がこのひとだとどうやっても心が大人しくなってくれないのだ。

「くろこだいる、さ、」

 ん、と言い切る前に男の声が被さってくる。掠れた低い、たっぷりと艶っぽさを染み込ませた声だった。

「これから飛び切りのおんなを口説こうと思っているのだが……幾つかご教授願いたい。」
「は、ぃ…っ、」
「明日の仕事はオフだ。……どこに行けばおれのおんなは喜んでくれると思う?」

 疲れてるんじゃ?と言い掛けたがしかし、男はぴしゃりと「おれの事は今聞いていない、だろう?お嬢さん。」と切って捨ててしまうのだ。
 このひとはまったく、自分に厳しすぎやしないかと思う。なまえからすれば『たいせつなひと』が疲れているならしっかり休んで欲しいし、喜んでもらいたい、とも思う。……そりゃあおでかけしたくない、といえば嘘になるけれど。

「なまえ。」
「え、っと……。」
「二人を明日送って行ったら、サマードレスでも見繕おうか。どの道必要になる。」

 思い悩んでいるのだろう、と男は明日の算段を付け始めていてなまえは慌てて頭を捻るのだった。「クロコダイルさんっ、」と珍しく大きな声を上げてしまって、そこで漸く男の腕の力は緩まる。

「午前中はのんびりしたい、です。ふたりっきりになれたらすごくうれしい、」
「ほお。そうきたか。」

 断らないと知っていて、そんな『おねだり』をしてみせるとは奥方も中々ずる賢くいらっしゃる、と演技じみた台詞を男は愉快なまま囁くのだった。「もう…」と腕の中で困り顔を浮かべてしまっているのが見えた。

「午後からはお散歩がしたいんです……おもしろいんですよ。」
「散歩が?」
「はい。おばあちゃんみたい、でした?」

 あの子たちと公園に行く途中ですけど、色々見つけては教えてくれるんですよ。変な鳴き声のわんこがいるお家とか、必ず同じ時間に通るお豆腐屋さんの自転車とか、なんてこと無い些細なものなんだろうけれど、見つけるたびにクロコダイルさんと顔を合わせて笑ってみたいんです。
 なまえは勢いのまま言って、その風景を想像してみる。……ちょっと見慣れないが、偶には穏やかなひと時があってもいいと思うのだ。

「本当はあの子たちも教えたがってましたけど、その、奥さんの特権で……旦那様をひとりじめしたいんです。」

 たぶん、飛び切りの女は、そんな風に口説かれたら嬉しい、かと。と最後はもにょもにょと言いよどんでいれば真上から大きなため息ひとつ。
 呆れられたかしら、とそろり顔をそちらに向ければごつごつした掌がなまえの額へと降りてきたのだった。

「明日の天気は確か晴れ、だったか。」
「……。たしか、おひさまマーク出てましたから。」
「崩れない事を願っているとしよう。」
「……。」
「どうしたなまえ。」
「おさんぽ、行ってくれるんですか?」

 「誘ったのはそっちだろう」と片眉上げて、男は柔らかな髪をもてあそんでいる。
 断る前提で言ったのかね?と問えば「いいえ、いいえっ」と子供のように何度も首を振るその素振りがみょうちきりんで、実に愉快だった。

「明日、とっても楽しみです…!」

 そう言ってはにかむ妻の笑顔の続きがたまらなく見たくなってしまった。
 本当に何十年かぶりに、社長の肩書きをほんの少々降ろしたこの男は『明日が楽しみ』なんて言葉を口から零していたのだった。





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