この時間帯、もう家に帰っているのは珍しい。そうなまえがぼんやりと思ったのは西陽が畳を刈安色に照らしているのを見ながらだった。普段の今時分なら買い物だったり散歩をしている時間だが…なまえのレポート期限が近いので今日は早めに帰りこうしてパソコンを前にキーボードを叩いていたのだった。
「ルフィ、絶対暇してるよねぇ…もうちょっとで済むから待っててねー…」
ぽつりと呟いたなまえの台詞は縁側でごろりと大の字になってしまっているルフィには当然届いてはいない。
元より人の都合などさして気にする性分では無い、これっぽっちも無い男で「構え!」となまえに突撃するのが常なのだが。
「まだかなー遅ェなー…なまえー…」
『これが終わったらお出かけしよう?』と指切りげんまんをしたのは今から一時間もしない前だ。なまえの用が済んだら盛大に構ってもらうと約束を取り付けたルフィは誰とも絡まって無い小指を眺めては再び「暇だ暇だ、」とのたまうのだった。
痺れが切れるのは時間の問題だろう、足の裏がうずうずして柔らかい微笑みを瞳に映したくなって「なまえ!なまえ!」と彼女の背中に飛び付くのはどうせ後三十分もしない内だ。
「海行きてェ、なまえに言おう。」
遂には行き先までも勝手の決めてルフィは寝返りを打つ。顔を向けたのは庭とは真逆、なまえが四角い画面と睨めっこをしている部屋の方である。
「…あの四角が割れちまえばいいのかー…?」
世の学生誰しもが血の気を引いてしまう台詞をどうでもよさげに諳んじてルフィは『縮んでしまった』己の指先を見る。
「そーいや、おれなんでチビになったんだ…?」
今更な疑問を呟いてそれから。
「…。」
風がひょうひょうと吹いては小さな庭を撫でれば、木と花草の香りを立ち上らせる。
「フーシャ村にいるみてェだなー…」
瞼を閉じたルフィは一体何を考えているのだろうか。陸に上がって久しく慣れた海の香りと煌めきを思い起こしているのかそれとも。
「…ん?」
眉間に珍しくも皺が寄って、さらにんんん?と唸り声を上げるそれはまるで奇妙な生き物を初めて見た時の様な、さてこれからどうやって『これ』で遊んでやろうか、と水溜りじみた浅い思案をしている時の声音と…瓜二つであった。
時計の針はとうに三時を回っている。
西陽が庭を染めていく。
「不思議時間かっ?」
ついに瞼は開かれて、ルフィの思案の殆どを占めていた『なまえ』から庭の一角へと移っていく。
香りが漂っていたから、ルフィは迷う事無くただ一点を眺めた…いや眺めるなんて甘っちょろいものでは無い。凝視だ、穴が空くほどの眼光はやがて彼のすっかり驚いてしまった声と慌ただしいバタバタよした足音に掻き消されたのだった。
「なまえ!なまえっ!海の匂いがする!」
午後の光の最中に、見慣れた青い光が覗いていた。
「帰れる!」
世界中に言い回るつもりかと疑ってしまう様な大声、そして彼女を呼び続ける。当然なまえがおや?と気が付くのはルフィの第一声であった。
この声音は…そうだ、ルフィと出会ったばかりの頃『おれは海賊王になるんだ!』と声高らかにうたった時ものと同じだ。ノートパソコンから顔を上げたなまえはくすりと微笑ったものの、その騒々しさに小首をかしげたのだった。
「なまえっ!」
スパンッ!と小気味好い音を立てて障子が開かれて、勢いよく響き渡る大声とともに少年が文字通り飛び込んで来たのはややもしてからである。頬を火照らせたルフィはなまえの前に腰を下ろすと一息吸ってから、なぁなぁ。と切り出す。
「おれは海賊王になるんだ。」
「うん。教えてくれたもんね。」
思い起こしていた台詞が当の本人の口からリフレインされてなまえは僅かにどきりとしてしまう。『同んなじ事を想像していたね』なんて甘酸っぱい感想がぽろっと胸の奥から零れてしまいなまえの頬には再び柔らかい弧が描かれていた。
「海賊王にもなるし、なまえと離れ離れになるのなんて絶対に嫌だ!」
「…うん、そういってくれて嬉しいよ。ありがとうルフィ。」
「なまえ!」
「なあに?」
「おれの事、大好きか?」
「…うん、すごく好きで、大切だよ。」
確かめ合ったばかりの言葉を、使い慣れていないけれど大切に取り出してルフィにおくる。なまえの返事に満足げにししし、と笑った少年はお日様に似た…誰もを惹きつける眼差しをなまえにおくり返すのだった。
「おれもだ。」
「ふふっ、うん。」
「だからおれと一緒に来い!」
「…え?」
ぐい!と腕を引っ張られ、そしてその力の強さにびっくりするのはなまえばかりだ。今まで手加減してくれていたのか、と言う程の力強さで彼の思うまま共に縁側に出て足早に歩き始めてしまう。
「え?え?ルフィ?」
「こっちだ!」
そして連れて来られたのは庭が見渡せる一角、丁度ルフィがごろごろと暇を持て余していた場所であった。
「あそこ見てみろ。」
「あそこ…?…え、ええええ、」
ルフィのぴんと伸びた人差し指の先には青い光と、漂う鼻を擽る潮の香り。青い光はよくよく見れば…水面が光で煌めいている風景であった。西陽でぼかしのかかったその海は庭の木々の隙間にはまり込むように佇んでいた。
「なまえ、おれと一緒に来いよ。」
「…ぇ…?」
「なまえ。」
「…あ、その、」
思考がまるで追いついてくれない。あの青い光はなんでこんなところに浮かんでいるのか、そもそもあれはなんなのか、ルフィはあれが何か分かっているのか。
疑問符ばかりで埋められた思考では指先一つ動かせず、みるみる内に青い光は木陰に溶けるように消えてしまうのだった。
時刻は午後四時、普段は二人で買い物をしている時間帯である。普段から『これ』はここに存在していたのか、今の今まで気がつかなかった。
「見間違いなんてするもんか、おれの世界の海だ。」
真っ直ぐに響くルフィの言葉になまえは心が強張っていくのを感じてしまった。
瞳に薄い水の幕が生まれて、雫が一つ睫の先を飾り立てていく。