朝菅子供妄想

 だんだんと日が沈んでいく。西の空は色濃い橙に染まっていた。立ち並ぶ家々の向こうには、背の高いビルが黒い影となって聳えている。
 幼稚園のベランダから終わりかけの夕焼けを眺めていた蓮華は、空を切り取ったような黒い影にほんの少しだけ怯えて、教室の中に駆け戻った。
 教室には蓮華以外誰もいない。耳障りなほど幼稚で騒がしかった園児たちは、みんな親が迎えに来て帰っていった。幼なじみの三宮真里も、橘が連れて帰った。いつもなら真里と一緒に帰って、父親である朝比奈が仕事帰りに迎えに来てくれるのを屋敷で待っているのだけれど、今日はそうしなかった。

「……蓮介、おそい」

 拗ねたように呟きながら、蓮華は玩具箱を爪先で蹴飛ばした。半透明のプラスチックケースの中で、玩具のブロックがかしゃりと軽い音をたてた。
 今日は朝比奈が迎えにくるはずだった。朝に、定時で上がれるはずだから、と言って頭を撫でてくれたのに、時計を見れば七時の方が近い。職場から直行するなら、もっと早くに現れてもいいはずだ。
 蓮華は黒板の上に鎮座する壁掛け時計をきつく睨みつけていたけれど、やがてそれにも飽いて椅子に座った。
 日中あんなにうるさい教室も、蓮華一人だと本当に静かだ。しかも夕日が消えてしまったから、だんだんと薄暗くなってきた。
 何だかたった独りきり、この世に取り残されてしまったような不安と恐怖を覚える。ひょっとすると、朝比奈は迎えにきてくれないんじゃないか。そんな考えが頭をよぎって、蓮華の両目にじんわりと涙が浮かんできた。
 いくら性格が菅原の生き写しといっても、蓮華はまだたったの五歳だ。強がってはいるけれど、ひとりぼっちで残されるのは当たり前に怖い。
 一度怖くなってしまえば、恐怖は心に長々居座る。小さな手をギュッと握りしめ、蓮華は涙がこぼれるのを何とかこらえた。
 潤む視界が鬱陶しくて、乱暴に手の甲で涙を拭った時、階段を駆け上ってくる足音が聞こえてきた。はっとして開け放たれた教室のドアを見る。

「蓮華、遅くなってすまない」

 蓮華の待ち望んだ姿は少しだけ息が荒く、撫でつけられた前髪もわずかに乱れている。帰ろう、と微笑む朝比奈に心底安堵したのに、蓮華は椅子から立ち上がることができなかった。

「蓮華ちゃん、お父さん来てくれたよ? お鞄持って、帰りの支度しようか」

 朝比奈の後ろから顔を除かせた若い担任が笑いかけてきても、蓮華は動かない。じっと朝比奈を見上げるだけだった。朝比奈と担任が顔を見合わせて首を傾ける。

「蓮華? ……遅れたから怒っているのか?」

 ドアのすぐそばの椅子に座る蓮華の前に、朝比奈が近寄って膝をつく。朝比奈の問いかけに蓮華はかっとなって、手のひらを朝比奈の頬に打ちつけた。呆然とする朝比奈が、やけに腹立たしかった。

「お……怒ってるにきまってんでしょ!! そんなこともわかんないなんて、ばかじゃないの?! こんな……こんなおそくて! どんだけ待ったとおもってんの……!」

 朝比奈が息をのむ。担任が驚いたように蓮華ちゃん、と呼んだ。
 一度高ぶった感情は、必死で押しとどめた涙を簡単に外へと出してしまった。決壊したものを手早く直す方法を蓮華はまだ知らず、大きな瞳から次々に大粒の涙珠がこぼれ落ちていく。

「すまない、本当に……ちゃんと定時で上がれはしたんだが、事故渋滞に巻き込まれてな」

 抱き締めてくる朝比奈の胸を何度も殴る。

「知らねーわよそんなの! 裏道でもなんでもつかって、さっさとむかえにくるのがギムでしょ?! むかえ、……むかえに、きて、くれないかと、おもった……!」

 大泣きしながら言ったから伝わらないだろうと思ったけれど、朝比奈はちゃんと理解してくれたようだった。抱き締める腕にこめられた力が、それを物語っている。

「そんなわけないだろう。どんなに遅くなっても、ちゃんと迎えにくる。お前は俺達の大切な娘なんだから」
「…………」

 ぎりぎりと朝比奈にしがみつく。なだめるように背を撫でる大きな手に、余計涙が溢れてきた。

「もちろん、菅原も蓮華を大事に思ってるから」
「……亮次が? うそだ……」

 鼻をすすりながら否定すると、朝比奈は苦笑した。

「菅原はお前のことをちゃんと見ているぞ?」
「……だって、あいつ、あたしと仲よくないもん……」
「性格が菅原譲りだからな、お前は。だが、あいつも蓮華のことが好きだぞ。あいつは素直じゃないから言わないだけで」

 俺も滅多に言ってもらえない、と苦く笑う朝比奈が少し哀れになった。

「……ほんとに」
「あぁ」

 朝比奈は頷きながら蓮華を抱き上げる。

「蓮華ちゃん、お迎え来てよかったねえ」
「……誰かにあたしが泣いたって言ったら、あることないこと言いふらしてやるんだから」
「蓮華」
「ふふふ、言わないから大丈夫よ」

 嬉しげに微笑む担任から通園鞄を受け取って、きっと睨みつける。朝比奈は咎めるような声で蓮華を呼んだが、担任は気にした風もなく笑っている。小さく舌打ちすると、朝比奈に小突かれた。

「ほら蓮華、先生にさようならは?」

 昇降口まで降りた朝比奈は蓮華を下ろして靴を履かせ、見送りにきた担任への挨拶を促した。
 蓮華は唇を尖らせつつ担任を見上げる。

「……さよなら」
「はい、さようなら。また明日ね」

 やけに笑顔の担任は、蓮華が珍しく子供らしい姿を見せたのが嬉しかったのだろう。緩んだ顔が癇に障って舌を出すと、やはり朝比奈に小突かれた。

「あたし女の子なんだから、ていねいに扱いなさいよ! 蓮介のバカ!」

 怒鳴りつけて駆け出したが、きっと朝比奈は笑っているだけだろう。
 園門の前で立ち止まって空を見上げると、すっかり夕暮れは見えず夜が幅を利かせていた。夜は怖くない。後ろには朝比奈がいるし、夜は菅原が主に活動する時間だから。

「……亮次、今日も遅い?」

 追いついてきた朝比奈を見上げて聞く。

「そうだな……でも、明日は休みだと言っていたから、迎えに来てもらうか」
「うん」

 騒がしい園を菅原は嫌がるだろうが、たまには菅原も自分を可愛がればいいのだ。思って蓮華はほくそ笑む。

(アイスかってもらお。あたしのと、亮介のと、蓮介のぶん。二人のはうんとあまいやつ! おかしもかわせちゃえ)

 普段すれ違ってばかりの生活だから、蓮華は思い切り菅原を構ってやることに決めて、上機嫌で朝比奈の手を取った。

prev | next | top
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -