悪夢を遠ざけるもの

 暗闇に追われている。
 汚泥のような闇は必死で駆ける幼い雷翔のすぐ足元まで迫っていて、それはどろりと粘着質な音を立てて雷翔の足首を掴んだ。
 掴まれた足首を引かれて、雷翔は派手に転ぶ。地面が硬ければ怪我をしていたろうけれども、すでにどこもかしこもぬかるんでいた。
 汚泥の触れたところから、身の内を蝕まれていくような恐ろしさを感じた。同時に、雷翔の身体はぬかるみの中に沈んでいく。汚泥に引きずり込まれていくのだ。
 汚泥が耳元で、薄汚く嗤う。もう逃げられないぞと嗤う。聴覚が汚泥のいやらしく汚い笑声に汚染されていく。
 雷翔はぬかるみに引きずり込まれながら、手足をばたつかせて必死で抗った。もう胸まで沈み込んでしまっている。無駄だと汚泥が嗤う。いやだ、と雷翔は沈みながら叫ぶ。
 たすけて、と叫んだ瞬間――

「――ッッ!」

 身体がビクリと痙攣のように震える。ほぼ同時に雷翔は勢いよく顔を上げた。

「……、……――」

 心臓が早鐘のように脈打っている。息も荒く、嫌な汗もかいていた。

(夢……、)

 確認しながらさっと周囲に目を走らせる。いくつも並んだラウンドテーブルとチェア、微かに漂うコーヒーの香り、どこか温かみのあるブラウンの内装。
 それらを認識して、雷翔はここが三宮の邸にあるカフェであることを知った。現在地を確認したことで、意識が現実に引き戻される。

「……他媽的(クソッタレ)」

 雷翔は汗で額に貼り付く長い前髪を乱暴に掻きあげた。
 こうやって悪夢を見て飛び起きて、まともに眠れなくなり一週間が過ぎている。例年通りなら折り返し地点だが、なぜだか今年は長引きそうな気が、雷翔にはしていた。
 相変わらず、薬はほとんど役に立たない。睡眠薬を飲んで寝ても、朝までに飛び起きない日はない。それでも睡魔は襲ってきて、こうしてうたた寝をしては十分もしないうちに悪夢に起こされる。

「大丈夫?」
「っ……」

 意味の分からない悪夢にいらついていると、ふいに穏やかな声をかけられた。
 隣を見上げると、一歩ほど離れたところにふわりとした金髪の青年が、心配そうに雷翔を見やっていた。

「……あんた、誰」

 素っ気ない声で訊ねる。この時期の寝起きは最悪なのだが、青みをおびた眸の青年にはあまり苛立たなかった。

「あ……、俺は山野井そら。君は……」
「劉雷翔。俺のこと知らねえんだ」

 皮肉げに言うと、山野井は少し困ったように微笑んだ。

「ごめん。有名な子なの?」
「そこそこな。彬いるだろ、水嶋彬。そいつのバンドのギタリストだよ」
「へえ……。あ――劉君、さっき魘されてたけど、大丈夫?」

 心配そうな青い眸が戻ってきた。

「魘されてた?」
「うん。すごく苦しそうだったから起こそうと思ったときに、ちょうど目を覚まして」

 だから山野井は気遣うような目で見てくるのだ。雷翔はそれで納得がいった。

「んー……まあ、なァ」

 答えて、雷翔は噛み殺しきれずにあくびを零した。
 そう、という山野井の相槌のあと、ぽふぽふと頭を撫でられて雷翔は思わず目を剥いた。
 ぽかんとして山野井を見上げていると、山野井はふわりと優しく笑んだ。

「バンドの子っていうことは、ファンがたくさんいるんでしょ? その子たちに心配させないように、あんまり無理しちゃだめだよ」
「……、おう」

 驚きながら頷いても、山野井は頭を撫でるのをやめない。
 頭を撫でられるなんて、いったい何年振りだろうか。成人済みだからこんなことをされても嬉しくないのだが、なんとなく振り払うのが憚られた。
 憚られた、ということに雷翔は内心戸惑っている。水嶋以外に抱く罪悪感など、自分の中に欠片だって存在していないと思っていたのだ。
 山野井が柔らかく微笑んでいるからかとも思ったが、同じようにしているのが松木だったら、雷翔は間違いなく振り払った上で殴るか蹴るかしていたろう。あの男は医者だから雷翔は嫌悪するし、信用ならない。

「地毛なんだね」
「あー……親父がイギリス人だから」

 そっか、と柔らかく笑んでいる山野井も、ハーフか何かなのだろうか。山野井が雷翔の髪を梳くのをやめないので、雷翔もなんとなく山野井の髪に手を伸ばす。
 触れた金糸は見た通りに、ふわふわしていて柔らかい。舐めたら甘そうだな、と思うが早いか、雷翔は山野井を膝の上に座らせた。そのまま長くない襟足に唇を寄せて、首筋ごとぺろりと髪を舐める。

「う、わっ?!」
「……甘くねえなァ」
「な、何が?」
「そらちゃんの髪」
「……そりゃ、そうだと思うよ」
「でもすげェ、イイ匂いする」
「わ……、」

 鼻をすり寄せて首筋の匂いを嗅ぐと、山野井はくすぐったそうに身じろいだ。

(……なんか、)

 山野井の温度は、雷翔を安堵させた。このまま山野井を抱いて寝れば、安眠できるのではないかと錯覚する。
 重たくなる瞼は睡魔に襲われたのではなく、優しく撫でられたような穏やかなものだった。
 山野井の肩に顔を埋めて、雷翔は目を閉じる。

「劉君?」
「……寝る、から……」
「えっ?」
「おやすみ」

 身じろぐ山野井をぎゅうと抱きしめて、雷翔は寝る態勢に入る。
 少しあとに意識の遠くから聞こえた優しい「おやすみ」に、雷翔は思う。

(彬でこんな気分になれたら、最高なのにな……)

 強く願うし、そうなることが一番いいのだ。けれども、雷翔を見ない水嶋では、その望みが叶うことはないだろう。この時期の雷翔にとって水嶋は、ただいらだちを増幅させるだけの存在になっている。

(……彬、愛して……)

 願いは、自己さえ認識できないほどの暗闇に飲まれて消えた。

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