施設育ち菅原の朝菅again

※菅原が施設育ち設定


 街は橙だった。道も家々も木々も空も、何もかもが一色に染められている。
 風景と同じく目に痛いほどの夕焼けに染まった小さな子供が一人、ほてほてと帰路を行く。何の変哲もない真っ黒なランドセルさえ、日暮れは浸食してほのかに黒へ温かみを持たせた。
 一人きりで歩く幼子の周りには、人どころか猫も鳥もない。道路をはさんで立ち並ぶ家の窓からは夕食の支度をする香りが忍び寄ってきていいはずなのに、物音一つ聞こえなかった。
 子供はそれを気にする風もなく、ただ少しだけ重い足取りで歩いている。帰るべき場所は家庭ではなく、矮小な大人のこずるい欲望が染み付いた児童養護施設だ。
 それでもきちんと食事を出してもらえるし、誰にも殴られたり蹴られたりしないだけ、元々住んでいた家より子供にはマシな場所だった。
 とはいえ、施設が好きという訳でもないし、足取り軽く帰りたいところでもない。結局あそこは、家ではない。帰るべき場所ではないのだ。
 ランドセルを鳴らしながらほてほて歩いていた子供は、ふと夕陽に染まる世界を見た。
 どこまでも広がっていく橙色は何故か切ない。子供の胸を突くのは、泣きたくなるほどの郷愁だった。帰りたい場所などないのに、夕暮れは『そこ』へ帰りたくさせる。
 じいと沈みかけの太陽を眺めているうちに、いつのまにか施設の門の前に立っていた。この世界と同じように橙色に染まっているのに、素っ気ない建物は少しも優しそうになっていない。
 夕陽との別れを惜しむと、子供は唐突に帰り道が解らなくなったような心地になった。目の前の門をくぐればいいだけなのに、まるで歩き方を忘れてしまったかのように動けない。

「亮次」

 突然、歩いてきた方向から声をかけられる。子供は――幼い菅原はびくりと震えて、弾かれたように声を振り向いた。

「何をしてるんだ、こんなところで」

 高校生だろう男が、優しく微笑んでこちらに歩み寄ってきていた。
 ――朝比奈。そう呼びかけようとしたが、不思議と声が出なかった。不思議といえば、自分はこの男を知らない筈なのに、どうして名前を知っているのだろうか。気安く、親しげに話しかけられるのが当然のように感じられるのはなぜだろう。
 朝比奈は黙りこくっている菅原を気にした様子もなく、小さい菅原の前に立った。

「早く帰ろう」

 朝比奈は笑み、菅原の手を取ってゆっくり歩きだす。菅原は自分の小さな手を握る朝比奈の手をまじまじ見つめ、それから腕を上って顔までを見上げた。
 彼は記憶にある朝比奈よりもずいぶん細い。昔は今ほど、身体を鍛えることをしていなかったのかもしれない。
 思って菅原は首を傾げる。昔――とは、今ほど――とは何だ。まるでこうして一緒に歩いている現在が過去であるかのような言い方をした。
 何かがおかしい。そもそも帰るとはどこへだろう。菅原がいつも帰っているのは、もう後方に過ぎ去った施設だ。施設を通り過ぎてどこへ帰るというのだろう。
 やがてゆっくりと歩みを止めた菅原を、朝比奈は不思議そうに見下ろした。

「どうした?」
「……」
「ひょっとして疲れたのか? ランドセルが重いかな。持ってやろうか」

 菅原はふるふると首を横に振った。いい、と言おうとしたのだけれど、どうやら今は口がきけないらしい。
 朝比奈は「そうか」と微笑ましげに笑む。

「今日の夕飯は亮次の好きなものにするそうだ。早く帰って母さんを手伝おう」

 菅原は頷いて、ほてほて歩きだす。
 ――そうだ、帰るべきは朝比奈のところだ。帰りたいのは朝比奈のところだった。
 郷愁を教えてくれた夕陽は、まだ沈みそうなままそこにいた。


 一瞬前まで、世界は日暮れに抱かれていた気がした。
 目を開けた菅原はぼんやりと、電灯に照らされた部屋を眺める。絶え間ない雨音が耳朶に触れ続けている。
 ――あんなに綺麗な夕陽だったのに。直前まで見ていた景色を惜しんでいると、ふいに大きな手が頭を撫でた。

「起きたのか」

 見慣れた姿の朝比奈が、間近で菅原を見下ろしている。先程まで見ていたのと変わらない、穏やかな微笑だ。

「……アンタか」

 菅原の頭に膝を貸している引き締まった身体の朝比奈を見て、ようやく自分が今まで夢の中にいたのだと自覚した。
 ――妙な夢を見たものだ。子供の自分が朝比奈の家族になっているなど。家族なんて必要のないものだと思っているのに。

「……寝ちまった」

 会うたび膝枕をしてやりたがる朝比奈に付き合っているうちに、本当に寝てしまっていたようだった。
 朝比奈と恋人でいられる時間など貴重だから寝て過ごすなど避けたいのだが、膝枕をされて頭を撫でられると、勝手に意識が落ちてしまう。これさえなければ膝枕をさせるのもやぶさかではないのだ。決して口には出さないけれども。

「疲れているんだろう」

 微笑む表情は夢と何一つ変わらない。――夢の方が何一つ変わらない、と言った方が正しいだろう。朝比奈の過去の姿など菅原は知らないのだから。
 筋肉もたいしてついていない優男の朝比奈と、現実の朝比奈がうまく符合しない。
 菅原はじっと朝比奈を見上げて、おもむろに頭を撫でる手を掴んだ。

「菅原?」

 そうして指を絡ませてぎゅうと握れば、得心がいった。

「……アンタだった」
「え?」

 夢と同じぬくもりだ。
 不思議そうにしている朝比奈を置き去りに、菅原は目を閉じた。
 ――できれば、あの夕暮れの続きを見てみたい。一般的な家族というものを、それが朝比奈を育てた家であるのなら、一度くらいなら夢であれ体験してやってもいい。朝比奈の手を握っていれば、それが叶いそうな気がした。

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