お互い欠けるのは嫌な話

 どうせお互い休日に喜ばせたい相手もいないのだから、と何とも失礼なことを後輩に言い放たれた朝比奈は、最近オープンしたという飲食店に連れてこられていた。
 世の中はゴールデンウィーク真っただ中で、どこの店も家族連れや恋人、友人同士で溢れかえっている。
 朝比奈が後輩に連れ込まれたこの――SkyLimitという店も、例に漏れず大いに盛況しているようだ。一般的な食事時を過ぎているが、店内ではセーラー服を着たウェイターやメイド服のウェイトレスが盛んに行き来している。客に成人済みらしい人間が目立つのは、ここが安価ではないという理由からだろう。
 メイドの恰好をしたガイド――ウェイターたちをそう呼称するらしい――に案内されながら、朝比奈は店内に視線を巡らせた。遠目に非常口のランプを見つけて内心ほっとする。万が一の時のために避難経路を確認しておかないと、どうにも落ち着かないのだ。
 同じように店内をさり気なく、くまなく見回していた後輩と目が合ってお互いに苦笑した。もう職業病と呼べるのだろう。
 他にも非常口を見つけておこうともう一度見回した朝比奈の目が、見慣れた後ろ姿をカウンター席に発見した。

(――菅原?)

 黒いスーツを着た水色の髪の男は、見る者が見れば一目で一般人ではないと感じる。きちんと顔は見られないが、あれは菅原だ。朝比奈には、たとえ遠目の後ろ姿でも菅原の存在を間違えない自信がある。
 菅原だな、と確信したのと同時に菅原がふいに振り向いて、二人の視線がかち合った。距離はあったが、しっかりとお互いを見ていることがわかった。
 菅原は驚いたように目を丸くしたが、朝比奈の連れに気がつくとすぐに何事もなかったかのように背中を向けてしまった。
 当然朝比奈も、すぐに菅原を意識から追い出す。
 ――解っている。お互い、絶対に知られてはならない間柄だ。顔も知らないふりを徹底しなければならない。恋人になれるのは、どちらかの家の中だけの限られた関係だ。きちんと心と頭の端々まで理解している。
 それでも、たったの一瞬で、何のためらいもなく気を逸らされてしまうと少しばかりショックだった。
 ここしばらく会えていないのだから、ほんの少しだけでもこの瞬間を惜しんで欲しかった……などと、ずいぶんと乙女じみた思考だ。朝比奈は内心苦笑して、他の非常口を探しつつガイドの背中を追った。
 案内されたテーブルで、適当に料理と酒を頼む。終始穏やかな空気だったが、一旦ガイドが席から離れると、後輩は途端に警察官の顔つきになった。

「先輩。さっき、男がいたでしょう。水色の髪の……少し雰囲気の違う」
「……ああ」

 明らかに菅原のことだ。雰囲気が違う、というのは、平和に表社会で生活している一般人ではない、ということに他ならない。
 わずかに声を潜める後輩に悟られないよう、朝比奈は動揺を警察官の仮面の下に閉じ込めた。

「あれ、ここのオーナーですよ。菅原亮次。組対部が目を付けてるって話ですよ」
「なに……?」
「この店に行くんだ、って組対部にいる同期に言ったら、教えてくれたんですよ」

 さすがに動揺が仮面に滲む。
 考えてみれば当然のことだ。菅原は裏社会の人間で、しかもいくつも店を経営しているのだから目を付けられていてもおかしくない。むしろ、いままでその可能性を考えなかったことのほうがおかしい。
 朝比奈は出て行きかけたため息を咄嗟に飲み込んだ。――ずいぶん頭が鈍ったようだ。

「今は本格的なマークじゃないから、行くんだったら店の様子をついでに探ってきてくれって頼まれたんですよね」
「その……菅原、……という奴が大きな組織と繋がっていないかを調べているのか」

 後輩は頷く。

「お前……何でそんな男の店だと知りながら」
「だってフーダーズみたいな店、楽しくて好きなんすもんっ」
「むくれても気持ち悪いだけだぞ」
「かわいいと思われたくてやったんじゃないんで。自虐なんで。それにここはクリーンな店って謳ってますし。まあ、それでも所轄の保安課は目を光らせてるみたいですけどね。他の店が店だからっつって」
「そうか」

 朝比奈は軽く頷いて、警察官の仮面を外した。料理が運ばれてきたのだ。後輩も瞬時に人の好さそうな青年に立ち返って、給仕をするガイドにあれこれ明るく話しかけている。
 どこかホテルマンのような接客スキルを身につけているガイドとの会話は、彼女のおかげで品を保ちながら静かに盛り上がっているようだ。朝比奈は酒を口に含みながら、バレないように菅原の姿を探した。
 しかし先程まで菅原がいたカウンター席には別の客が座っていて、結局それ以降は店内に菅原の気配すら見つけることはできなかった。
 高いだけあって酒も料理もうまいのだろうが、残念ながらそれらを味わう心の余裕は、朝比奈の中からほとんど奪われてしまっていた。



 菅原の店に行ってからの数日間、朝比奈は胸裏を悶々とさせながら過ごしていた。職務中に気を抜くことは勿論しないし、その辺りの切り替えは慣れたものだから問題ない。
 朝比奈を支配していたのは、無論菅原への心配だ。会えない日が続いていたし、忙しいからとメールも電話も通じない。ニュースなどにはなっていないし職場で噂も聞かないから無事ではあろうが、知りようのないところで菅原の身に何かあったりしたら……と思うと、朝比奈の身体は焦燥に焼かれた。
 だから、久々に屋敷への出勤が重なって、五体満足で目立った外傷もなく元気そうな菅原を見て心底安堵した。
 しかし人目があっては話したいことも話せない――屋敷ではお互いに不仲を装っている――から、朝比奈は菅原にできるだけ誰にも見られないように裏庭へ行くようにメールを送った。
 来たけど、という返信があってから朝比奈も裏庭へ行って、屋敷から死角になるよう木の影で待っていた菅原と合流した。

「お前、何もやらかしていないよな」
「はあ?」

 久し振りにまともに口を利ける機会だというのに、朝比奈は菅原を思わず抱きしめることもせずに開口一番そう聞いた。
 菅原は刹那の甘い時間を欲しているわけではないだろうが、不愉快そうに目を眇めた。何か話があるのは察していた筈だが、さすがにいきなり何がしかの失敗を疑われたら、それは不愉快でもあろう。

「……すまん。久々に会えたのだから少しでも恋人らしいことをしてやりたいが、あまり長くも話せないだろう」
「そんなのはどーでもいいんだけどよ。何なんだ、会うなり」
「ああ……いや。お前が組対部にマークされていると聞いて……心配でな」
「あー、それな。知ってるぜ。客から聞いたし、目はどこにでもあるからな」

 特に気にした様子もない菅原に、朝比奈は虚を突かれる。菅原がそうそう慌てふためく人間でないのは知っているが、もっと忌々しそうにしたりするかとは思っていたのだ。

「色々と保険があるからな。今は本気でマークされてるわけじゃねーし、とりあえずは問題ねえよ」

 顔色一つ変えない菅原に、朝比奈の不安は強まった。
 この男はあまりにも簡単に嘘をつく。隠し事だって朝比奈より格段にうまい。息をするように嘘をつけるから、強がっているだけなのではないかと勘ぐってしまうのだ。本格的に目をつけている訳ではない、というのは後輩に偵察を頼んだ刑事本人の口から聞いたことだから、間違いではないのだろうが。

「……本当に大丈夫なんだろうな」

 念を押すように聞く。菅原からの答えはなく、ただ訝しそうな反応があっただけだった。

「俺はな、菅原。お前を失うなんて事は絶対に嫌なんだ」
「……」
「逮捕されるだけならまだ、いい。生きて出てこられるだろうしな。だが、もしも――お前が殺されたりしてしまったら、俺は耐えられない」

 後を追うようなことはしないし、菅原もそれは望まないだろう。だが一番大切なものを失ってしまった朝比奈の心は欠損する。埋まらない虚ろができて、いつまでもいつまでも菅原の影を求め続けてしまう気がしている。

「だから菅原、少しでも俺を大事に想ってくれているなら、自分のためじゃなく、俺のために気をつけてはくれないか」

 真剣な表情を保って言うつもりだったが、朝比奈の眉は情けなく下がり、頼むというより縋り付いて懇願するようになってしまった。だが体裁にこだわってなどいられない。
 菅原は朝比奈の情けない姿を見るのが好きだと言っていた。だったら今の姿だって菅原の気に入るだろう。計算した訳ではないが利用できるなら利用する。菅原が真面目に取り合ってくれるのなら、汚い手段だろうとも使ってみせる。
 それほど朝比奈は必死だったし、自分の世界から菅原という存在を欠きたくないのだ。
 だが朝比奈の哀願は、鼻で笑われるだけだった。

「俺のことより、自分の心配をしてるんだな。お偉いさんってのは、自分の地位にしがみついていたい奴しかいねーんだから。エリートSPの黒い繋がり……なんて炎上させられて、目くらましにされても知らねえぞ」

 ――暗に、警察上層部にも裏社会と癒着している人間がしっかりと存在している、と言っている。そして彼らは、自分達の保身のためなら、朝比奈と菅原の関係の方を大事にして大衆の目をこちらに向けさせると。遺憾である、と頭を下げながら口を拭い。さあ次は誰を生け贄にしようかと、醜い笑みを浮かべるのだ。
 残念ながら朝比奈は反論する言葉を持たない。若い頃ならいざ知らず――警察組織が清い正義の集合体ではないと、理解してしまっているから。
 朝比奈は複雑な表情で黙り込む。朝比奈の表情を眺めていた菅原は、少し間を置いてから独り言のように口を開いた。

「……もう一つくらい、保険かけとくか」
「菅原?」

 顔をそらした菅原はちらと朝比奈を一瞥し、木陰から出て行く。

「……俺も、アンタがいなくなるのは面白くねーからな」

 朝比奈の耳に届くか届かないかの声量で言って、菅原は振り向かずに裏庭から立ち去った。

「……菅原」

 菅原の背中を見送る朝比奈は、そよ風にさえ掻き消されそうなほどの声で菅原を呼んで顔を伏せた。
 ――また、知らないところで危ない橋を渡るのだろう。――渡らせてしまうのだろう。
 一般的に正義とされる朝比奈の立場では、社会の暗部に属する菅原に対して何の手助けもしてやれない。菅原が大人しく守られているような人間でないのは解っているが、朝比奈は歯痒くて仕方なかった。
 どうしようもないことは承知の上での付き合いだ。お互いどちらかの側に落ちてやる気がないのも、だからこそ手を取ったのも理解している。
 それでも朝比奈は大きな無力感を抱かずにはいられなかった。恋人の力になってやりたい、と思うのは当然のことだ。当然のことが当然のようにできないのは辛い。
 朝比奈はぎりと拳を握りしめる。手袋をしていなければきっと血塗れになっていたろうほどに、憤りは強かった。

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