菅原を案じる朝比奈さん

 一人きりの部屋はやけに静かだ。もうすぐ日付も変わろうかという時間だからか、静寂は朝比奈の耳元でやけに騒がしい。
 朝比奈はソファに深く腰掛けたまま丸い黒縁の壁掛け時計を見上げて、落ち着かない様子で深く息を吐いた。
 銀色の秒針が発する規則正しく細い音が朝比奈の鼓膜を震わせ始めて、すでに三時間が経過していた。

「菅原……」

 朝比奈は焦がれるように、この部屋の主の名を呼ぶ。もちろん返事のあろうはずもなく、身を案じる相手の名は行き場をなくして、空気に溶けて消えるだけだった。
 今日はお互い久方ぶりにプライベートで会える時間が作れた日だった。示し合わせたわけではなく、本当に偶然休みが重なったのだ。
 それを知るなり当然のように約束を取り付けて、一日をともにした。日中は街をうろついて、菅原が夕食は朝比奈の作ったものがいいと言うから道すがらにあるスーパーで買い物をして――食事よりも酒を気にしていたので、これは改めさせる気でいる――菅原の家で夕飯にした。その後で少し酒を飲んでから、そう言う雰囲気に持ち込んで寝室に入った……まではよかった。
 菅原が店から呼び出されさえしなければ、朝比奈はいまも菅原を抱きしめていられただろう。心底空の腕が寒々しくて、また溜め息をついた。
 シャツを剥いでからベッドの上に菅原を押し倒して、口付けながら引き締まった身体を撫でたところで、菅原に着信があった。詳しい内容は聞かなかったけれど、どうやら新人が不始末を起こして、菅原が出なければ治まりそうにないようだった。
 菅原はかなり渋っていたが、朝比奈が行くように言ったので結局は店に向かった。朝比奈が口出ししなくても、なんだかんだで仕事に対しては生真面目な菅原のことだ。ぶつくさと文句を垂れながらも向かっていたに違いない。
 ――久々に触れあえるかと思えばこの結果だ。朝比奈は顔も知らない菅原の店の人間を少し恨めしく思った。何せ朝比奈のそこは年甲斐もなくしっかりと自己主張をしていたのだから。菅原が渋ったのには、そういう男の事情も含んでいたろう。
 とはいえ一人で処理するほど切羽詰まっていたわけでもない。昂りが落ち着いてからは、好きに見てろと言われた映画でも見て待っていようとリビングに移動した。
 多少の心配はあったが、最初のうちはそうやって悠長に構えていられた。落ち着いていられなくなったのは、二時間を過ぎてからだった。
 菅原は二時間もあれば戻れるだろうと言って出て行ったのだ。それが未だに帰ってこない。朝比奈はいったい何度、リビングを右往左往したかわからなかった。
 菅原の身に何かあったのではないかと、そればかりが朝比奈の頭を駆け巡って占拠する。
 朝比奈は菅原の店について、詳しく聞いたことがない。知っているのは何がしかのクラブだということだけだ。
 深く聞いてしまったら警察官としての自分と、菅原を愛している自分の間で板挟みになるような気がする。朝比奈はそれが恐ろしくてたまらない。
 菅原が警察官である朝比奈の事を、敵対勢力同然だと言っていたから余計だ。恐らくは、まっとうだとは言いきれないのだろう。黒い繋がりもあるかもしれない。だから悪い予想ばかりをしてしまう。
 菅原に電話して、無事を確認しようとしたけれど、朝比奈は何とか踏みとどまった。もしも警察官と親しい以上の関係にあると知られれば、菅原の立場が悪くなるのではないかと思ったのだ。

「……」

 警察官であるが故に、気安く恋人に電話をかけることもできない。
 警官になると言うのは自ら選んだ道だし、むろん誇りも持っている。なのにこの立場を歯痒く思う日が来ようとは――。
 朝比奈は苦笑しようとして失敗して、軽い溜め息をついた。こんなことは最初から理解していたはずのことだ。
 単純な心配さえ阻まれると解っていながら、お互いにいまの立場を変える気はない。朝比奈も菅原も、愛のために現在(いま)を投げ捨てられるほど無鉄砲でも、激しくも、若くもあれない。全体、そんな選択肢も最初から存在していなかった。
 いくら愛していても、絶対に譲れないラインというものがあるのだ。
 だからこれからも似たような事があれば、朝比奈はやはり今日と同じように心配を繰り返すのだろう。
 せめてメールでも送ってくれれば心配も減るのだが――。朝比奈はまた溜め息をついた。何度携帯を見ても、着信も新着メールもない。

「……早く帰ってこい」

 どうしようもないことがひどく歯痒くて、朝比奈はまるで祈るように呟いた。



 秒針の音が溶けていくだけだった空間に、朝比奈の待ち望んだ物音と気配が混ざったのは、さらに三十分ほどが過ぎてようやくの事だった。日付はとうに変わっている。体感的にはあれからもう三時間は待った気がした。
 ――結局一度も、菅原からの連絡はなかった。

「なんだ、起きてたのか」

 無事に帰ってきてくれたのはもちろん喜ばしい。だが戻ってきた菅原の態度はあまりにあっけらかんとしていて、少しも悪びれた所がない。
 朝比奈はリビングに入ってきた菅原を、あえて振り向かないようにした。平然とした菅原に、ほんの少しだけ苛立ったのだ。

「……帰る前に連絡くらいしろ」
「……あ」
「どれだけ心配したと思ってる。心配するしかできない俺の身にもなれ」

 菅原は完璧に失念していた、という反応のあと黙りきっていたかとおもえば、ソファ越しに朝比奈を抱きしめてきた。
 菅原の唇が朝比奈の耳を食む。それはあまやかな時間の続きを催促するものではなく、愛情表現の一種に感じられた。

「すがわ……、」

 これでは怒れない、と内心苦笑した朝比奈の鼻腔を、嗅ぎ慣れない香りがかすめた。朝比奈は眉をひそめる。
 香水の類いではないのは確かだ。少しだけ孕んでいる甘さは、どこか花の香りに似ている。菅原はそういった匂いの香水は持っていないし、そもそも香水の匂いとはどこか違う。

(どちらかというとシャンプーの匂いか……ん?)

 朝比奈の予想が正しければ、菅原は店でシャワーを浴びてきたということになる。そうしなければならないようなことをしてきた、ということに。

「菅原、お前――」
「アンタがさ」

 ひとに心配をかけておいて他の人間に触れてきたのかと思うと、心の奥底のほうから愉快とは言えない感情がせり上がってくる。そういう仕事とは言え、状況が状況だっただけにあまり納得ができない。仕方のないことだと理解していてもだ。理解に感情が従えないこともある。
 ともかく事情を聞こうと口を開くも、先に菅原が話しだしてしまった。
 菅原の声はどこまでも落ち着いていて深く、何かを噛み締めているようで、朝比奈は一瞬呆気にとられる。

「アンタが家にいるって思ったら早く帰りたくてさ。そればっかりで――忘れてた」
「菅原」
「誰かが帰りを待ってるなんて、ずいぶん――年単位で久し振りだったし」

 だから気付いた、と菅原は囁くようにして言う。

「好きな奴が待ってるって、信じらんねえくらい幸せだって思うものなんだな」

 菅原の腕に力が籠った。まるで、その幸福を決して逃がしたくないのだと語るように。
 菅原は肝心なことほど口には出さず、態度や行動で語る。だから朝比奈は菅原の機微に気付けないことが多かったけれど、今回ばかりは見逃しようがなかった。

「……まったく。そんなことを言われたら、怒れないだろう」

 朝比奈は溜め息をついてから、菅原のほうに顔を向ける。菅原はしてやったりという顔をしているけれども、朝比奈の機嫌を取るためだけに言ったのではないことは確かだ。菅原は例え相手が朝比奈でも、人の機嫌に頓着する人間でない。
 菅原は本当に幸せを感じてくれているのだろう。珍しく和らいでいる菅原の表情が、何より物語っている。朝比奈は菅原の唇に、軽い口付けを落としてやった。
 自分の存在で菅原が幸せを感じるのなら、朝比奈にとっても至福なことだ。
 だが、と朝比奈は内心で言う。
 唇を離すと、菅原は朝比奈の唇を追ってきた。不満そうな顔は、もっとしろ、と言っている。朝比奈は菅原の唇に人差し指をあてて、軽く押し返した。言うことを聞いてやりたいが、ここはひとまず堪えておく。

「一つ聞くが、シャワーを浴びてきたのか」
「ん? ああ」

 平然と頷く菅原に、落ち着いていた朝比奈の嫉妬心が再びじわりと滲みだす。

「それは……」
「……」

 他の人間と触れあったのか、とまでは聞かなかった。口に出して、あまつさえ肯定されてしまったら、嫉妬に負けてしまいそうだからだ。たとえ感情の伴わないただの仕事だと、頭で理解していても。
 妬いている、ということが見て取れるだろう表情をしている自覚が、朝比奈にはある。菅原は無表情で朝比奈の顔を見ていたが、ややあって底意地の悪そうな笑みを浮かべた。――悪戯を思いついた、とでもいうようなタチの悪い笑みを。

「さて、どうだか?」
「菅原ッ」

 朝比奈は咎めるような声で菅原を呼ぶ。菅原はくつりと喉で低く笑った。そうして菅原は朝比奈の耳元に口を寄せて、腰に響くような、誘うような低い声で言う。

「気になるのなら、アンタの身体で確かめてみるといい」

 言葉とともに、菅原の手が朝比奈の胸部を撫でて下肢へ向かっていく。

(……明日は遅刻だな)

 思いながらも、朝比奈は菅原の誘いに乗る自分を誡めようとはしなかった。



 朝比奈がミネラルウォーターを持って寝室に戻ると、菅原はベッドにうつ伏せになって煙草を吸っていた。
「それで」朝比奈は問いかけながら煙草を奪う。不満げな顔をされたが、ご所望の水を献上したので機嫌を損ねることはないだろう。
 奪った煙草を菅原の枕元にある灰皿に押し付けて火を消しながら、さらに問うた。

「結局、何でシャワーを浴びてきたんだ」

 数時間の間に菅原が他人に身体を明け渡した様子はなく、ただ疑問が深まるばかりだった。
 菅原は身体を起こして水を一口飲んでから、朝比奈に答えをほどこしてくれた。

「ご機嫌取り済ませて新人指導して、やること終わらせての帰りしな、とんだドジにコーヒーぶちまけられてな」
「ああ……」
「髪も身体もコーヒー塗れで、そのまま帰るわけにゃいかなくなったってだけだ。アンタの心配してるようなことはなかったさ、」

 今日のところは――。飲み下された言葉を、朝比奈は気付かなかったことにした。
 ある程度聞こえなかったふり、気付かなかったふりができないと、菅原との付き合いは身が保たない。独占欲と嫉妬と――心配に食われてしまう。

「……そうか」

 朝比奈はベッドの縁に腰掛けて、下ろしたままの菅原の髪を梳いた。

「それならそうと、最初から素直に言えばいいだろう」
「せっかくアンタの嫉妬面が見られる機会だってのに? 冗談。そんな気分のいいモン、見過ごすわきゃねーだろ」
「……お前という奴は……」

 意地悪く笑う菅原に、朝比奈は溜息を漏らす。

「お笑いだな」
「――?」

 ふいに菅原は真面目な顔をして、静かに言葉を零した。

「アンタに嫉妬されて、気分いいなんて。鬱陶しいモンでしかないと、思ってた。無理矢理、首に縄を括り付けられて、縄の長さ以上には動けなくなるような――そういう息苦しさがあった」
「……」
「サーカスの象は子供の頃から縄に繋いでおくと、大人になって縄を解いても逃げなくなるんだとさ。そんなふうに、どこへでも行けなくなるのが煩わしいから、嫉妬されるのは嫌いだったよ。なのに――だからな」

 饒舌な菅原が物珍しくてじっと見つめていると、視線に気付いた菅原はふっと笑んだ。

「……喋り過ぎた。寝ようぜ。アンタ、朝早いんだろ」
「……ああ」

 時計を見ると、ずいぶんと時間が過ぎてしまっていた。睡眠時間は三時間あるかないかだ。
 普段の起床時刻に起きられる自信は少しもないが、それを承知の上で菅原の誘いに乗ったのだ。睡眠不足にしても幸せなものである。今日は内勤だから要人警護ほど気を張らなくていいのも幸いだった。
 ――などと思うようでは、まったく駄目な警官に堕したものだ。
 内心で苦笑しながら、朝比奈は菅原の隣に潜り込み、しっかりと抱きしめて浅い眠りの途についた。

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