主そら遊郭パロ



 時代が進み、文明が進歩し、世界が進化を果たしても、人間の根底にある欲望というのは少しの形も変えることはないらしい。
 ――東亰には、原初から受け継がれ続ける欲求を満たす茨の箱庭が存在する。その箱庭の名を、吉原といった。
 日本随一の遊里として名を馳せる吉原は、四方を分厚い壁と深い堀によって囲まれている。街の北東には大門があって、これが外界と吉原を繋ぐ唯一の道である。
 整然としながらも華々しい吉原の街並は戦後に一時期廃れ寂びれてしまっていたが、絢爛な吉原を忘れられない男たちによって再建されて、いまでは戦前以上の美しさを誇っている。
 吉原にある廓はほとんどが遊女屋だが、珍しく男の娼妓だけを集めた見世がある。吉原を訪う者は女目当てが多いにもかかわらず、その見世は吉原でも一、二を争う大見世となっていた。
 ――大見世の連なる一画に澄まし顔で佇む男の廓の張り見世に、その娼妓はいる。
 空は格子の向こうから粘着質な視線を注がれて、わずかに目を伏せた。
 張り見世に出るのは基本的に水揚げを終えたばかりの新人だが、予約が埋まらなければ新人でなくとも張り見世に並ぶ。
 空は見世の中では下から二番目の格である座敷持の娼妓だ。普段なら馴染みの男たちが登楼してくるけれど、今夜は偶然が重なって、全員の都合がつかないらしい。それで張り見世に並ぶことになった。
 目を伏せても、いやらしい視線は緩まない。空は内心で眉根を寄せて溜め息をついた。
 空は、こうやって下品に品定めされるのが嫌で仕方なかった。汚泥にまみれた手で直接肌をべたべたと触られているような不快感と嫌悪感が込み上げてくる。
 吉原にいるほとんどの娼妓がそうだが、望んで箱庭にいるわけではない空にとって、娼妓の仕事は苦痛でしかない。特に、張り見世に凛と並ぶ娼妓たちを、ニヤニヤと下卑た笑いで下品に眺めているような手合いの相手は。
 しかし、嫌だとは言っていられないのが吉原の娼妓だ。年季が明けて、大手を振って大門の外へ出て行けるようになるまでは、どんなに辛くとも耐えるしかない。

(でも……)

 漠然とした不安が、空の心を襲った。
 ――出て行ったところで何ができる? 外の世界のことをほとんど覚えていないのに。
 吉原を出て、それでどうやって生きていけばいいのかが、空にはまったくわからなかった。馴染みの男たちに外のことを聞いてはいるが、吉原と違って外界は常に先へ進んでいる。決して歩みを止めはしない。娼妓上がりが出て行ったところで、時代の奔流に翻弄されてしまうだけだろう。
 年季明けまでは、あと数年。それまでに身請けされれば、面倒は身請けした男が見てくれるので不安はおおむね消える。だが、空の馴染みの中には、空を身請けしようというほどの男はまだいなかった。
 どうにでもなるだろう――という楽観ができるほど、空は器用に世渡りができない。結局、一生吉原にいるしかないのだろうか。

「これは――三宮様」

 鬱々としていく意識は、客の呼び込みをしている妓夫の驚いたような声に逸らされた。
 ちら、と声のしたほうへ一瞬だけ視線を向ける。視線はすぐに戻したが、意識だけは妓夫のほうに向けたままだ。他の娼妓も同じようにしている空気が、薄く伝わってきた。

「本日はどういったご用件で……? 浅葱は今日は休みをとっていると……」
「茶屋から聞いた。――入ってもいいか」
「あ、ええ。どうぞこちらへ」

 茶屋の者を連れて訪れた若い男は三宮万里といって、先月お職をとった浅葱という花魁の馴染みの男だ。大きな財閥の当主で、見世の客の中でも三指に入る上客だと、空は聞いている。
 そして――ただの馴染みではなく、浅葱の間夫ではないか、という噂も。間夫というのは、娼妓の本命の客のことをいう。
 浅葱が体調不良で休んでいることは伝わっているのに、どうして三宮は見世に来たのだろうか。澄まし顔の裏で空は首を傾けて、首を傾げたことに苦笑する。
 浅葱も三宮も、こうして張り見世に並ばなければならないような空からすれば雲上人だ。見上げても影さえ見えないような存在のことなど、考えても分かりはしない。三宮に傾いていた意識を、張り見世の格子の向こうに戻した。
 戻すなり、いやらしく娼妓を値踏みしていた男と目が合った。大見世に来るような客にしては、顔つきや視線にあまりに品がない。

(あの人は……嫌だな)

 もし彼に初会を申し込まれたら、終わったあとで振ってしまおう、と決める。遣り手には客を選り好みするなと言われているけれど、ああいういやらしくて性欲が明け透けな男はどうしても苦手だった。絶対に嫌だ、と思うほど嫌悪感の湧き出る相手でなければ我慢しているので、今回は勘弁して、と帳場あたりにいるだろう遣り手に脳内で言った。
 ――いくら吉原が遊里だといっても、初対面ですぐに娼妓を抱ける訳ではない。
 まずは初会といって、客と娼妓でお見合いのようなことをする。客が指名した娼妓を検分し、娼妓も客の人格を見定める時間をもうけるのだ。
 初会では娼妓はひと言も言葉を発さない。酒を勧められても、無言でこれを断る。客の相手をするのは新造だけだ。娼妓は初会の間中、つんと澄まして座っている。
 初会の宴席が終わったあとは同衾をするが、ここでは何もせずにただ寝るだけだ。廓では、このときしきたりを無視して客が手を出そうとしてきたら、布団から出て行ってしまっていいことになっている。
 二回目に同じ娼妓のところに登楼することを裏、または裏を返すという。裏では初会よりは娼妓との距離が縮まる。会話もするし、少しなら酒にも付き合う。けれども裏ではまだ手を出してはならない。客が娼妓を抱けるのは、三度目に登楼して馴染みになってようやくのことだ。
 切見世や小見世など、安い娼妓だけを置く格式の低い見世では、このしきたりを遵守していないようだったが、少なくとも大見世では厳守されている。見世の威厳と格を保つのには、これも必要な儀式だった。

「空」

 そっと男から視線を外すのと同時に、帳場のほうから遣り手に呼ばれた。空は静かに立ち上がって、手招きする遣り手のところに向かう。

「なんですか?」
「初会の申し込みだ。引付部屋にお通ししたから、すぐに向かいなさい」

 引付部屋とは廓の二階にある座敷で、そこで初会や裏の宴が開かれる。
 位の高い娼妓ほど客を長く待たせるもので、この廓ではたとえ最下位の娼妓であってもそれなりの間を置いて客のもとに向かわせている。
 それが客をあまり待たせないようにということを言うのだから、空は首を傾げた。空の疑問を感じ取った遣り手から告げられた名前に、空は目を剥くことになった。

「申し込んでくださったのは、三宮様だから」
「え……」

 驚愕して立ち尽くす。一瞬、遣り手が何を言ったのか理解できなかった。
 普通、馴染みの娼妓をもつ客は他の娼妓を指名できない。客と娼妓の関係は疑似夫婦だからだ。一度選んだ娼妓には一生筋を通さなければならない。
 ただし、この廓には他の見世ではあまり見ない特殊な制度がある。
 馴染みの娼妓の他にも、一人だけなら指名できるのだ。これを廓では愛人制度と呼んだ。
 愛人制度があるから、浅葱以外の娼妓に初会を申し込めるのは理解ができる。空が驚いたのは浅葱の間夫である三宮が愛人制度を利用したことだけではなく、何故自分が選ばれたのか――ということが大きかった。
 愛人には、馴染みよりも格下の娼妓が選ばれることが多い。それらはたいてい、花魁とは呼ばれない娼妓たちになる。本命のプライドを傷つけないためと、愛人というのがそもそも名代の役割を果たすものなので、花魁では名代に入る時間がないからだ。通常名代には新造が入って、このとき名代に手を付ければ野暮といわれ蔑まれる。が、愛人ならば名代でも褥の相手が許された。
 だから浅葱よりずっと格下の空が愛人として選ばれるのは、少しも疑問ではない。わからないのは、どうして自分が指名されたかだった。
 空は浅葱や、浅葱と並んで廓の双璧と言われている三日月のように目立つ存在ではない。花魁でない娼妓にも目を引く存在があるなかで、どうして三宮はわざわざ空を指名したのだろうか。
 疑問を抱きながらの初会は、終始厳格な雰囲気のなか執り行われた。初会の間中ずっと三宮に鋭い目で値踏みされていて、何度取り繕った澄まし顔が崩れそうになったか知れない。赤みをおびた目をした新造に、ずいぶんと気遣わしげに見られていたから余計に不甲斐無くていたたまれなかった。
 空は、どうせ申し込んだのは三宮の気紛れだろうと疑問を片付けてその後の日々を過ごしていたけれど、しばらくすると気紛れという説も怪しくなった。
 あんなに近くで三宮を見るのはあの一度きりだと思っていた。けれどもどういったわけなのか、あの初会からひと月が過ぎたころには、三宮は空の馴染みになっていたのだ。

(何を考えてるんだろう……)

 またも登楼(あが)ってきた三宮に酌をしながら、空は内心で溜め息をついた。浅葱は見世に出ているのに、三宮は空に予約を入れてきた。
 何度か顔を合わせ、肌を重ねて分かったが、三宮は浅葱に嫉妬をさせようとはしていない。こちらから聞かなければ浅葱の話題も口にしないから、空はますます三宮が浅葱をどう思っているのかが分からなくなっていた。
 伏し目の向こうにある三宮の琥珀を、じいと見つめる。
 最初、空は三宮に見つめられるのが少し恐ろしかった。色彩が狼のようだから、ふとした瞬間に食い殺されてしまいそうで。
 いまなら、実際にそんなことをされるわけはないと分かっているので、怖くはない。けれど、やはり空を見てくる視線は強くて、意図せずして目が合うと畏怖してしまう。

「――……っ」

 盃を空にした三宮と、構える前に目が合って、空の身体に緊張が走った。動きが硬くなった空を見て取った三宮が、くつりと喉で笑って盃を置いた。

「いつまでも慣れない奴だな」
「あ……」

 ぐいと力強く抱き寄せられる。からかうような三宮の声が耳元で紡がれた。均整のとれた三宮の肉体に、空の細い身体がすっかり収まっている。
 背中に感じる体温に、空はだんだんと居心地が悪くなっていった。
 ――ほんとうならこの温度は、浅葱のものだ。
 三宮の舌と掌に愛撫され小さく喘ぎながらも、居心地の悪さはいっそう増していく。
 実を言えば空が愛人指名をされたのは、三宮が初めてのことではない。いまの馴染みの何人かは、もともと空を愛人にしていた男たちだ。
 彼らの本命が見世にいたころ、名代のおり抱かれたことも少なくない。だが――こんな後ろめたさを覚えるのは、これが初めてだった。
 同じ愛人であるのに、いままで抱いたことのない思いを抱えるということは、彼らと三宮で何かしらの差異があるということだ。そして空は、その差異の正体をすでに悟っている。

「は、あ……あっ」
「よそ見をするなよ。接客中だろう」
「ふあっ……、ごめ、っ……」

 見世で支給される潤滑剤を纏った三宮の指が、ぬるりと空の中に入り込んできた。余所事を咎めた三宮の声には、しかし本気で叱責しようと言う色は窺えない。むしろ意地悪いことをする理由を見つけて、楽しんでいるように聞こえた。
 浅葱のことも、三宮はこんな風に意地悪く抱くのだろうか――。
 増やされた指に翻弄されるなかでふいに過った思いに、空は内心失笑した。愛人の自分が嫉妬をしてどうするのか。
 たとえ三宮が他の男と違って、浅葱の名代ではなく空の元に登楼ってきているとしても、三宮は浅葱のものだ。これ以上三宮を知るべきではない。でないと、踏み込んではいけないところまで入っていってしまう気が、空にはしていた。


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