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吉原の一日は日の出から始まる。それは日本に定時法が浸透する以前の名残だった。大門も通常は日の出とほぼ同時に開かれるが、冬になって日の出が遅くなる時期は午前六時に定められていた。
夜明け前に後朝(きぬぎぬ)の別れをすませた空は、大門まで三宮を見送って行った帰りに見世の玄関でばったり浅葱に出くわした。
「……」
「……」
少しだけ眠そうにしていた浅葱の翡翠が見開かれる。まさか遭遇するとは思っていなかったのだろう。空も同じようにして身体を強張らせた。
お互いに黙り込んで向かい合うこと十数秒、先に状況を把握したのは浅葱だった。
「あー……と……。おはようございます」
「……おはよ……」
揃ってぎこちなく挨拶を交わす。動揺のあまり誰にでも気安い癖が出てしまって内心慌てたが、浅葱は格下の空に気安くされても気を悪くする様子がなかった。お職の余裕と言うものなのだろうか。
「――あの人、馴染みになったって?」
問い返さないでも、空には浅葱の指す人物が誰なのか分かった。
「その……ごめん」
気まずさのあまり謝ると、浅葱は目を瞬かせてから頬を掻いた。
「べつに、謝る必要ないですよ」
「え?」
「俺はあの人に会う回数が減って万々歳ですし」
辟易したような言い方に、空は首を傾げる。
「どういうことですか? 三宮様って浅葱さんの間夫じゃないの?」
「は? ……ああ、そういう噂あるんだった。冗談じゃないですよ。どうして身揚がりもしてないのに、そんな話になるんだか……」
浅葱はひどく忌々しそうに、きれいな顔を歪めた。
身揚がりというのは、娼妓が自分の揚げ代を払って客を登楼させることをいう。高位の花魁ともなれば揚げ代だけでも他より高額だから、そんなことをしてまで登楼させたい相手はその娼妓の間夫だろう、となる。それとは別にお茶挽き――客のつかなかった娼妓が自分で揚げ代を負担して休むことも言ったが、廓ではほとんど前者の意味で使われる。
空は浅葱が身揚がりをしていないと聞いて目を丸くした。三宮が浅葱の間夫だという話ばかり聞くものだから、当然身揚がりしているのだろうと思っていた。
よく考えれば、大財閥の当主である三宮に対して身揚がりをする必要などあろうはずもない。普通身揚がりは、あまり金を持たない客に対して、それでも会いたい娼妓がするものだ。
「俺、ずっと三宮様が浅葱さんの間夫だと思ってた」
「ほんとにそれ、冗談じゃないですよ。俺はどっちかって言うと、あの人好きじゃないですからね」
さすがにこれは、声をひそめて浅葱は零した。
「だから、さっさとあの人かっさらってくれたほうが――」
「あは、浅葱さんと空発見ー」
三宮は閨ではすこし意地が悪いが、床入りする前ならずいぶん優しいし品もいいのにどうして好きではないのだろうか。
空が首を傾けていると、浅葱の背後から軽い声がかけられた。
「……三日月さん」
「おはよー」
浅葱が面倒くさそうに振り返る。のんびり近寄ってきていたのは、浅葱と並んで双璧と称される花魁の三日月だった。ギリギリで品を保って着崩された着物がいやになまめかしい。
三日月はなぜか浅葱を通り過ぎて、空の背中に貼り付いた。いきなり思い切りのしかかられて、空はたたらを踏む。呆れたような浅葱が前から支えてくれたので、みっともなく潰れてしまうのはなんとか避けられた。
「修羅場になりそうな組合せだねー」
あわやという事態を引き起こしたにも関わらず、素知らぬ顔で実に楽しげに言う三日月に、浅葱がうんざりとしたふうの溜め息をついた。
「なりませんよ。何の用ですか」
「面白そうな二人組見かけて、面白そうだから声かけただけ。――ああ、浅葱さん、先月のお職、おめでとーございます」
ぺこりと三日月が頭を下げる。浅葱は嫌そうに顔を顰めた。
「俺はあなたと違って、取ろうと思ってお職取ってないんで、嬉しくないんですけどね」
「えー。俺もお職取ろうと思ってるわけじゃないんだけどなー」
一方はつんと澄まして、もう一方は淫靡に笑う花魁二人にはさまれて、空は顔には出さずに緊張していた。
――廓の双璧にはさまれる座敷持ち。とんでもなく空は場違いだ。
通りかかる娼妓たちが、おや、という目で見て過ぎ去って行く。違和感を与える光景だと言うのはよくわかっているから、是非とも放っておいて欲しい。それか救い出してくれればいいものを。
三日月にのしかかられている空に対して、哀れみの視線が時折向けられるのは、三日月の過ぎる奔放さに理由がある。
三日月は技の研究、研鑽と称して気紛れに娼妓や新造に手を出すのだ。彼なりの線引きがあるのか、最後までは致さないし禿にも手を出さない。だから折檻までにはいたらず、それが三日月の自由さに拍車をかけていた。見世の大黒柱の一人という理由もあるのだろう。
「う、わっ!」
「ふふー」
いきなり三日月に太腿を撫でられて、空は驚いて声を上げる。
「な、なんですか!」
「ねー、空。トーリ君まだ足りないんだ」
見世から源氏名を与えられているのに、三日月はそれを無視して一人称に本名をふざけて使う。禿のころからの再三の注意も功を奏さないので、見世側はすでに諦めているらしかった。
八つ口から手を突っ込まれる空に、誰も救いの手など差し伸べない。そうしたら今度は助けたほうが三日月の標的にされるからだ。
「あ、浅葱さん、助け……」
――って、いないし!
楽しげに蠢く細い手から逃げたくて縋ろうとした浅葱の姿は、すでに近くにはなかった。
「四ツまで、遊ぼーよ」
「ちょっ……む、無理……!」
――どれだけ遊ぶつもりだ。朝四ツ――だいたい午前十時前後――まであと何時間あると思っているのか。空はさすがに閉口したい気分になった。
娼妓は朝帰りの客を大門まで見送ったあとに朝四ツまで二度寝をして、酷使した身体を休めるようになっている。三日月は楽しいからいいかもしれないが、さんざん三宮に支配された空は、ここで休んでおかないと夜が辛すぎる。
「昼見世の間に寝ちゃえばいーでしょ」
「それは遣り手に怒られる……んっ、」
「わかった、じゃあ五ツまで」
「そういう、問題じゃないから……っちょ、やめてっ」
「だーめ。俺が妥協してあげたんだから、空はそうしたら、俺と遊んでくれなきゃ不公平じゃない?」
そもそも空には三日月と遊ぶつもりなどない。なのに三日月は空のことなどおかまいなしに、空を引き摺って行く。――いったいその細い身体のどこから、そんな力を出しているのか。
成り行きを見守っていた娼妓たちから哀れみの視線を向けられながら、結局空は大した抵抗もできずに三日月の本部屋に引きずり込まれてしまった。