気がつくと、山野井を何かぬくもりが包んでいた。規則正しく脈打つ音を伝えるそれはとてもあたたかくて、いままで感じていた心細さや不安の一切を消し去ってくれた。
 三宮と同じ匂いのするぬくもりに、山野井は頬を摺り寄せた。すると、ぬくもりが優しい手付きで山野井の髪を梳いてくる。

(あったかい……)

 ずっとこのまま包まれていたかった。ひどく満たされている心地になって、泣きたくなるほど幸せな気がする。
 しかし蛍光のように淡く静かに降り注ぐ幸福は、そのぬくもり自身によって打ち砕かれた。山野井の腰を抱いていた手が、するりとある種の意図を持って滑り降り、臀部を撫でたのだ。――驚いて目を開ける。
 開かれた視界に入り込んできたのは、意地の悪い笑みを浮かべた三宮の顔だった。

「えっ、ちょ……っ、えっ? 万里?」
「起きたか」
「起きて……えっ、ちょっと……ええっ?」

 慌てて身体を起こすと、三宮が不満げに眉を顰めた。山野井は混乱して意味もなく辺りを見回す。三宮は山野井の混乱ぶりを低く喉で笑ってから、上体を起こして山野井と向き合った。
 意地悪くニヤニヤと歪められる唇に、山野井は不審を覚えて眉を寄せる。

「媚びへつらう豚どもの脂ぎった宴会に参加させられて、苛立ちながら戻ってみれば、何だ? 山野井が人のシャツ抱きしめながら、ベッドの端っこで丸まって寝てるじゃないか」
「寝て――俺、寝てたの?」
「思い切りな。しかも何だか泣きながら」
「えっ!」

 驚いて目元に手をやるが、涙の痕跡はない。三宮はおかしそうにくつくつ笑う。――たばかられた。

「よしてよ。もう……最低だな」
「何だよ。誰も嘘なんて言ってねぇだろ。まあ、いずれにせよ、事実はお前が滅茶苦茶可愛かったってことだな」
「……よしてよ」

 からかうような言い方のくせ、声は優しい。耐えきれずに眼を逸らした。

「山野井?」
「――なんでもないよ。コーヒー飲む? ……ああ、でもいまから飲んだら、眠れなくなっちゃうかな」
「山野井」
「――っ」

 ベッドから下りようとすると、腕を引かれて背中から三宮の胸に倒れ込んだ。低く不機嫌そうな声に、山野井の身体が強張る。
 ――しまった。山野井は臍を噛んだ。
 三宮は山野井が話を誤摩化すのを嫌う。以前にそれをしたら、二度とするなと教え込まれたのに、苦痛から眼を逸らすことを優先し過ぎて失念していた。
 三宮の手が頤(おとがい)を取り、顔を少し上向かせられる。低く棘のある声が、耳朶に囁いた。

「言え。何を考えてる」
「な……何も――痛ッ」

 掴まれた手首をきつく握られ、鋭く走る痛みに呻いた。それでも本音を吐露したくなくて、山野井は頭(かぶり)を振る。
 言え、と重ねて下命されても、絶対に言いたくはなかった。強情な山野井に三宮は腹立たしげに舌打ちをした。次いで、ベッドに乱暴に引き倒され、その上に三宮が覆い被さる。

「どうやらまだ、躾が必要らしいな――山野井」

 凍えるような双眸で見下ろされて、身体がすくんだ。

「やめ――やめて、万里……っ」
「だったら、言え」

 強引に身体を征服される中で再び下命されたが、やはり口を噤んだ。言ってしまうくらいなら、手酷くされて構わない。
 言う事を聞かず、何も言わない頑迷な山野井に、三宮の機嫌は更に悪化した。与えられる乱暴の度合いが増す。
 どれだけ心身の痛みに泣き叫ぼうが、防音の室内から外に悲鳴が漏れることはない。
 身も心も引き裂かれても、言ってしまったら、何もかもが終わってしまう気がした。
 好きだ、なんて言葉にしてしまったら、途端三宮は山野井からなけなしの興味さえなくしてしまうのではないかと。
 好きな相手に見向きもされないのは、とても辛い。気付いてもらえなかったことが、三宮が山野井への興味を失った状態に思えて、それで余計苦しかった。
 だったら、手酷く犯されてでも見てもらえているほうがいい。三宮の視界に入れなくなることのほうが、既に山野井には断腸ほどの苦痛だった。

「……山野井。俺に、お前に対して乱暴をさせるな」

 山野井を傷つけたのは三宮のほうだし、手荒な真似を選んだのは三宮本人の決定だ。なのに彼はひどく傷ついたような声音で山野井に言った。――それは、懇願にも似ていた。
 後悔しているような顔を見ていられなくて、半ば朦朧とする意識の中で、山野井は三宮の首にしがみついた。

「……ごめん」

 だけれども、やはり言いたくないのだ。ひどく傲慢なエゴで傷つけている、と分かっても。愚かなほど利己的で醜い自分が情けなくて、山野井は一人で泣いた。
 ――そこから先は覚えていない。気付くとベッドには山野井しかいなかった。服はきちんと着せられている。三宮がやってくれたのだろうか。

「万里……?」

 広い室内を見渡しても、三宮の残り香さえない。唇を噛んで俯きかけたそのとき、リビングへのドアが少し開いていることに気がついた。隙間からは柔らかい灯りが零れて、暗い寝室に少しだけ光を入れている。
 あちこち痛む身体を庇いながら、山野井はふらふらとリビングに出る。三宮はソファに仰臥して目を閉じていた。
 近寄ってみれば、髪が濡れているのに気付く。そういえば、と山野井は自身の肩口を撫でた。身体はさっぱりとしていて、行為があったと示すのはあらぬところの痛みだけだ。

「身体、綺麗にしてくれた?」

 三宮の前に膝をついて、寝ているのに眉間に皺を寄せている三宮に囁き声で訊ねる。答えなどは必要ない。気を失っていた山野井は、自分ではシャワーを浴びられなかった。三宮が清めてくれたのは問わないでも明らかだ。

「……ごめんね、万里。俺、どうしても言いたくなかった。万里のこと好きになったなんて言ったら、もう触ってもらえなくなる気がして――それは寂しくて辛いから」
「――それは、俺が落とした相手には興味をなくすような男だって言ってるのか」

 目を伏せたまま発せられた落ち着いた声に、ぎくりと固まった。何も答えない山野井を、三宮はちらりと片目を開けて見た。

「それは……あの……、聞いてた、の?」
「聞いてた」
「っ……」

 山野井は咄嗟に口元を押さえた。ざあっと血の気が引いていくのが分かる。
 ――どうしよう。そればかりが頭の中を駆け巡って支配した。まるで他の言葉を忘れてしまったかのように、他には何も浮かばない。
 三宮が溜め息をついて身体を起こす。真っ青になって視界を涙で滲ませていた山野井は、三宮の挙動にいちいちびくついた。

「何でそんな風に思った?」
「な、んでって……」
「いいから」

 口を塞ぐ手を取り払われる。そのまま引き上げられて、山野井は三宮の足の間に納まってしまった。背後の体温が、優しく先を促してくる。それでまた泣きそうになった。

「だって……。だって万里、他の人にも手を出してるし……。俺のことなんてただの遊びなんじゃないかって……思って」

 声が震えた。早く戻ってきてくれれば充分だと思ったはずなのに、なんて脆いのだろう。
 涙を零すのは何とか耐えられたが、努力は三宮から齎されたこめかみへのキスで水泡に帰した。

「なのにっ……そんな風に、優しくするから、俺……っ、もう、やだ……」
「何が」
「遊んでるなら、優しくしないでよ……」
「馬鹿か」

 言葉とともに、ぎゅうと抱きしめられる。

「誰もひと言も、遊びなんて言ってねえだろうが。俺はこれでも、かなり本気なんだけどな」
「うそだ」
「……信用ねーな」

 苦笑が聞こえた。
 他の人間に手を出しているのに、本気だというのを信じろとは随分都合のいい話だ。

「他の執事連中のは、ただの躾だぞ」
「……」
「そりゃ、それで悪戯はするけどな。好き好んで優しく抱いてるのはお前だけだ。何なら朝比奈さんとか、他の連中に聞いてみろよ。お前にするみたいにいつも優しいかってな」
「聞ける訳ないでしょ!」

 とんでもない提案に、思わず三宮を振り向いた。その先で、嬉しそうに緩んだ視線とぶつかる。

「やっと俺を見たな」
「……っ」
「捨てやしねえから、安心しろ」

 なだめるようにあちこちにキスをされる。また、眸に涙が滲んだ。――それは安堵だった。

「本当に――万里を好きでも、いいの」
「当然だ。……つうか、あれだけ甘やかすのに全然伝わってなかったのが驚きっつーか」
「それは……だって言葉にされなきゃ、万里のことは、俺はわからないよ」

 いままでただの一度も、山野井は三宮に恋慕を言葉にされたことがない。職業柄人の態度で感情を見抜くことはそれなりにできるが、三宮の場合は他者に悪戯をするから信じられなかった。
 もっと早く言葉にしてくれていたら、こんな風に無理矢理身体を暴かれることにもならなかったろう。
 ――ただしそれは山野井にも言える。どうして自分を抱くのかとか、そういうことを訊ねていたら、きっと今日三宮を怒らせはしなかったのだ。
 気が抜けて、山野井はすっかり三宮に体重を預ける。一気に眠気が襲ってきた。もともと繁多な一日で疲れていたのに、強引に抱かれたのだから当然だろう。

「おい、ここで寝るなよ」
「ね……何で今日は、俺のこと呼ばなかったの」
「あ? ああ――見かけたら嫉妬するかと思って。お前、たいてい笑って受け流すからな、嫉妬とかそういうことをさせてみたくなった」
「ひどいな……」

 三宮の悪巧みは成功したと言えるだろう。嫉妬よりも強かったのは不安だが、三宮を奪われた気がして悲しくなったのは確かだから。

「万里の悪巧みで、俺はたいへん傷つきました。こんな広いとこに一人で待たされて、寂しかったし、心細かったし」

 眠気に任せて、恥ずかしげもなく本音を吐露していっている気がする。眠気のほうが勝っていて、山野井の理性は勝手に言葉を紡ぐ口を諌められない。

「西原さんと、お似合いだったし、絵になってたし。俺なんかよりずっと、ご主人様の隣にいていい人ってかんじで……」
「西原って、今日案内させたベルガールか? 女を作る気ないって、知ってるだろ」
「知ってるけど……。でも、不安だったんだよ。俺も西原さんも、万里と比べたら身分違いだけど、どちらのほうが歓迎されやすいかって言ったら、女の子の西原さんだもん……」
「誰がどう思おうが、歓迎しようがしまいが、関係ねえよ。俺が欲しいのは、お前だ、山野井」
「うん……」

 とびきり真面目な声で言われて、嬉しくて抱き着きたいと思ったけれども、それよりも瞼の重みが勝った。
 その日の最後の記憶は、そうと山野井の花唇に触れる三宮の唇の感触だった。


(2013.05.11 修正)

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