バンパイヤ 1.シュテルンビルトへ来た獣(3) 夢を見ていた。 虎徹、お前が最後のナハトヴァだ。 お前は娶って子を成す義務がある。 そう言われて曖昧に頷いた。 リーダーに否と言える訳が無い。 友恵のことは好きだ。 何故なら彼女もまた、血族であり、それも正統な唯一人残った天宮なのだから当然だ。 だが彼女は病弱で、獣の本性一つ見せないまま、館の奥に篭りきりだった。 それでは意味がない。 我々は獣なのだから。 大地を蹴り、森を駆け、闇夜に吼え、獲物を狩り、血を啜る生き物のはずなのだから。 なのに友恵は。 ヒトよりも脆弱で、ヒトよりも世界を知らず、それでナハトヴァと言えるのか。 夜啼き一族として、彼女は弱すぎる。 彼女はナハトヴァの末裔でありながら、ヒトとしてしか生きられなかった。 異形の生き物の中で、さらに異形としてしか。 無理に子を産ませた結果、彼女は失われ、残ったのはもはや一人娘の楓だけ。 兄とも慕った、数少ない血族であり、仲間だった村正は、虎徹には目もくれず楓に傅いた。 母である安寿もまた、それに従い。 それでも、楓が十の歳までは良かった。 何故なら故郷があったから。 あの美しい原生林を、こじんまりとした村を、野生動物たちの楽園を、ダムの底に沈めようだなんて何処のどいつが、一体全体何処の馬鹿が考えたのか。 否応もなかった。 僅か数十人にまで減っていた夜啼き一族が、日本(ヒノモト)の決定に逆らえる訳がない。 先祖伝来の住み慣れた土地を捨てて、ナハトヴァは流離う事になった。 新たな地を見つけて、ヒトとなれ。 それが、長老の最後の決断だった。 意味がない。 全く意味がない。 何のために友恵は死んだ? 何のために楓は生まれた。 そしてなんの為に俺は結婚したのだろう。 だったら恋に殉じれば良かった。 自分の心に素直になれば良かった。 村正に想いのたけをぶつけた。 本当は俺はお前が好きだった。 あんたと森を駆けたかった。 俺たちの本性は獣だ。 山野を駆け巡る自由な狼だ。 猛々しい魂を持った、ヒトではないなにかだった。 何故ヒトの倫理観に屈しなければならなかったのか? 例え獣に転じることが出来なかろうと、村正は間違いなくナハトヴァの雄で、誰よりも猛々しい聖狼の魂を持っていた。 磨かれる前の原石の魂だ。 虎狼のようでありながら、それでいてまっすぐに芯の通った、呆れるまでに純粋な獣の魂。 好きだった。 大好きだった。 ヒトのままでも充分雄雄しい、彼こそ群れのリーダーだった。 欲望のままに貪りあいたいと願って何が悪かろう? 獣だからこそ、そこにはヒトにある禁忌など何一つなかったというのに。 なのに、村正は残酷にも拒否したのだ。 ありえない、と。 更には自分たちが異形とばれ、国からも追われた。 日本(ヒノモト)において、NEXTの地位は、家畜にも劣る。 惨い迫害が待っていた。 だったらいっそのことと、村正は極東圏からの脱出を提案し、海を越えて東海岸圏へと逃げ延び、東洋街と呼ばれる寂れた田舎町へと落ち着いた。 日本とはまた違う深い原野。 しかし、そこは確かに安住の地ではあったのだ。 だが、虎徹はもうたまらなかった。 東洋街に落ちついてから程なくして訪れた、染み入るような満月の夜に、虎徹は出奔した。 獣の本性に従って、その欲求の赴くまま、原野を駆けた。 東海岸圏にあるという、NEXTの理想郷、シュテルンビルト。 それはシュプリングフルートの中央島に築かれた 巨大三層都市国家だという。 そこへ行こう。 もう振り返るまい。 友恵は死んだ、村正は俺を拒否した。楓には母が仕え、もう俺を引き止めるものは何もない。 そうして、ただ、獣としての純粋な、自由への憧れからそこを目指したはずなのに・・・。 ある晩、獣に転じて駆けていた虎徹は惨い罠に掛かった。 血の匂いに惹かれ、近くまでやってきてそれがヒトの手によるものだと知った。 ここ最近、ずっと何かに追いかけられている気配を感じていたが、それはヒトではない獣の気配だったので特に気に留めていなかった。 だが、これは? 今漂うその危険な匂いは、明らかにヒトのもので虎徹は狼狽する。 二種類の混ざり合う、全く異質な匂いに虎徹はウウ、と後退った。 刹那、背に感じる殺気にも似た気配。 虎徹は、反射的に振り返ってしまい、一歩後ろに下がったその瞬間、左足を食む金属の音。 足を引きちぎっても逃げればよかった。 大きな樅の木に瞬時に逆さ吊りにされ、虎徹は哀れに啼き叫んだ。 そのままもがき苦しむこと、二昼夜。 もはや、身動きもままならず、充血した目を力なく伏せて、もがく事も諦めてしまった虎徹の元に、その人間は笑顔で現れた。 虎徹を捕獲したのは血のような真っ赤な瞳と、銀糸の髪を持った冷酷な男で、長く逆さ吊りにされたまま放置されたせいで口と鼻から出血している銀黒の狼を見ると、満足げにこう言った。 「やあ、吊れた吊れた。 凄いな、銀黒の毛並みだ。 うん、いいマフラーになるだろうね」 気力を振り絞って噛み付こうとしたら、容赦なく殴られて、虎徹は血反吐に塗れる。 「まだ、動けるのか、うん、いいね。 でも君はマフラーではなくて僕のペットになるんだよ」 それから男はこう呟いた。 「全く躾がなってない。 調教には随分かかりそうだな」 息も絶え絶えの虎徹の毛皮に手を這わせて、ねっとりと囁く。 「これから私がお前の主人だ。 逆らおうなんて思うんじゃないよ? いい子にしていたらお前にもいい目を見させてやるから」 赤い瞳が俺を見ている。 虎徹は絶叫して飛び起きていた。 結局一晩中バーナビーは眠れなかった。 ヒトへと変貌してしまった犬を、そのまま床に放置しておくわけにもいかず、バーナビーはベッドにそれを寝かせてやる事にする。 右腕の傷は犬でいたときよりも大きくなってしまい、包帯はきつく巻きすぎになってしまっていたので、外して今はそのまま外気にあてられたままだ。 苦しげに浅い呼吸を繰り返し、夢の中で悪態を吐く男の髪に手を触れると、それはナイロンのように滑々で、銀光沢を持っていた。 犬であったときのあの不思議な銀黒だ。 ここだけ、あの犬の面影を残している。 どうやら犬であったときより、ヒトに転じてしまった方が、傷が酷くなってしまうらしく、それは多分ヒト型のほうがサイズが大きくなるからかのかなとバーナビーは予測したが、当たり前なのだが全裸に、あろうことか胸が騒いでしまった。 というか、素晴らしく綺麗な身体をしてるなあと思う。 均整がとれていて、なんだろう、ああそうかこれが黄金率ってやつだろうかと思った。 熱はないようだが、息が熱い。 それに苦しそう。 魘されている。 傍らで見守りながら、バーナビーは優しく髪を撫ぜる。 この男は東洋系だな。 それにしてもあまり見かけない人種のようだ。 あれだ、極東圏の島国である日本人というのがこれじゃないだろうか? ふとそんな知識が頭を過ぎった。 そして突然の絶叫。 「うああああああッ!」 かっと目を見開き、男が起き上がったので、バーナビーはびっくりして反射的に後ろに仰け反る。 しかしそれが幸いした。 起きるのみならず、男は恐ろしいほどの跳躍力で、ベッドの向こうテーブルの反対側まで飛び退り、四つんばいになってバーナビーを激しく威嚇したからだ。 仰け反ってなければ、頭突きしてたな、とバーナビーは冷静に考え、男を見る。 男は驚愕を顔に浮かべ、バーナビーを凝視していた。 「大丈夫ですか? えーと、貴方は何処から来たんです? 僕の言ってる事判ります?」 「アスク・・・・・・、 シン!」 え? バーナビーは聞きなれない言葉に首を傾げる。 何語だろう? ヒノモトの言葉かしらん。 「あー、えーと、危害を加える気はありません。 っていうか僕が貴方を保護しました。 覚えてます?」 ゆっくりと両腕をあげた姿勢で近づいていく。 まさか形はヒト型だけど、中身が犬のままってことはないよな?と心配になったが、他にしようもないのでバーナビーはそっと接近し続けた。 じりっと男は後ろにやや下がったが、まじまじとバーナビーを凝視し続けており、やがて緊張が走ったままだったが両者は触れ合える距離まで詰めた。 「触れても?」 「違う」 不意に男はそういった。 明瞭な声だった。 「違う、お前は誰だ? なんで俺はここに?」 「覚えてません?」 フーッと男が喉から威嚇音を出した。 ヒト型だけど、やっぱなんか中身は犬のままだなとバーナビーは思い、そっと手を伸ばす。 今度は男は逃げなかった。 「あいつらどうした?」 「あいつら、とは?」 「犬だよ、しつっこい犬ども! キャンキャン喚いて、俺をしつこく追いかけてきたあいつら!」 「僕が散らしました」 「お前が?」 「ええ」 片手で男の髪に触れる。 びくりと身じろぎしたが、男はじっとバーナビーを見つめていて、その視線に険がなくなっていることにバーナビーは気づいた。 暫く金色の瞳を瞬きもせずにバーナビーを見上げていた男は、長く息を吐き出すと、「じゃあ、お前が俺の恩人ってことなのか」と言った。 「助けてくれた?」 「そういうことになりますね」 「何故、助けた!」 「何故って・・・、なんででしょう?」 バーナビーも首を捻った。 暫し、バーナビーはその男と見つめあい、ああ、なんて綺麗な琥珀色の瞳をしているのだろうと思った。 月の光を集めたような、美しい金色の瞳だ。 その虹彩を彩るのは、闇夜に翳る、薄い雲幕のようでもあり、銀河の煙る星の輝きにも見えた。 ウルフアイ、ああなるほど、このNEXTは。 一方、バーナビーには犬だと思われていたが、実際はニホンオオカミに変身することの出来る男、虎徹はこの突然出現した人間に酷く動揺していた。 基本あまり虎徹はヒトを、外見で区別していない。 もっぱら匂いによって認識しているところがあったので、今目の前にいる人間が、自分が初めて遭遇した「他人」だと解っているにも関わらず視覚的には混乱していた。 何故なら、目の前の男、バーナビーは自分を卑劣な罠に嵌めて捕獲した挙句、惨く飼っていたヒトに良く似ていたからだ。 しかし、良く似ているというのは気のせいかも知れなかった。実際のところ、実は虎徹はそのヒトをはっきりとは視認していない。 確か顔をきちんと見せていたのは、自分を捕獲したあの夜、樅の木の下に宙吊りになっていた時だけで、後は常に顔をサングラスで隠していたからだ。 なので、虎徹が彼について一番良く覚えているのは、その異質な体臭の方だった。 虎徹はそれに、日本人以外のヒトの種類を良く知らない。 白人なるものに遭遇したのも、実際はあの男が初めてだったわけで、目の前に居るバーナビーが二人目ということになる。 単なる人種の適合が、そういう錯覚を起こさせているのだろうか、それとも。 そこまで考えてところで、虎徹はぐらりと傾いだ。 ああ、畜生、なんで、俺、・・・・・・。 「だ、大丈夫ですか?」 バーナビーは、突然ふらふらと崩れるように床に沈んだ虎徹に、声をかけた。 金色の瞳が空ろい、ふと悔しそうに歪んだかと思うと、どうやら朦朧となったらしいと気づく。 バーナビーは逡巡したのち、倒れ伏した虎徹の傍らに駆け寄ると、その肩にそっと触れた。 「な、んで、おれ、ヒト、に」 戻る気なんか無かったのに。 畜生、薄汚いヒトになんか、二度となるつもりは無かったのに、なのに何故。 悔しかった、惨めだった、悲しかった、苦しかった。 なのに、このヒトの手は、妙に温かくて、優しくて。 胸が、苦しい。 苦しくて、痛い。 バーナビーが虎徹の頬に手を寄せると、熱い涙が触れた。 声も発てずに、この男は泣いている。 酷い怪我をして、何かに怯えて、誰かも判らない者の手の内で、さぞかし不安だろう、辛いだろうと何故かふとそう思った。 [mokuji] [しおりを挟む] Site Top ←back |