摂氏42℃とラムネと金魚(6) 蝉の声が五月蝿い。 近頃の蝉の声は、初夏の頃に良く聞いたミンミン蝉の声ではなく、ジージーという重低音になってきており、更に耳障りになっていた。 日が暮れるとこのジージーが、蜩(ひぐらし)の声に変わるのでそれはそれでまた五月蝿いのだが、油蝉の声よりはましなんじゃないのかと、アントニオは思っていた。 虎徹曰く、ミンミン蝉は暑さに弱いのだそうだ。もしかすると、このあたりでは今年ミンミン蝉は絶滅したんじゃないのかとか、不穏なことを言い出す。 「そんなことがありえるのか?」と問うアントニオに、ぐったりした虎徹が市役所の温度計を顎で示した。 時計と共に設置されたその温度計は、恐ろしいことに42℃を指し示していた。 「42℃とかありえるのか。 直射だからなのか。 アントン、地球は滅びるぞ」 「結構普通にあるだろ。 近頃夏はこんな感じだ」 「昔は絶対もっと涼しかったぞ」 「日本の話をしてるのか」 「違う。俺は日本知らないから」 虎徹がそう言いつつ、全く市役所の前の直射されているベンチから動かないので、アントニオもなんとなくそこに座っていた。 でも、このままだと、非常に身体に悪い気がする。 そう思いつつ、横でぐったりとしている親友のN.E.X.Tを見ると、茹だる様な暑さの中、右手で顔を覆いながら、自分を横目で見やっているのが解った。 「場所を変えないか」 そういうアントニオに虎徹は言う。 「夏になると、N.E.X.Tが増えるんだそうだ」 「村上先生の言い分か?」 「そう。 熱で増えるのかな。 熱したらN.E.X.T消えないかな」 「そういう単純なもんだったらいいな」 自嘲気味にそういうと、市役所の周辺にある木々につけられていた飾りの一部である風船が、何もしないのにぱんと弾けた。 熱膨張で、破裂してしまったのだ。 勿論、アントニオも虎徹もそんな事は解っていたし、こんな炎天下に風船で飾りつけするとか馬鹿げているとは思ったのだが、通りすがった通行人たちが一様に驚いているのを見て、アントニオがふざけて言った。 「N.E.X.Tでもいるのかね」 「そうそう、夏場にはいろんなとこに出てくるな」 そんな事を言っていると、まさに一斉と言った感じで、殆ど全ての風船が弾け飛んでしまった。 町内夏祭りと書かれた垂れ幕が衝撃で左右に揺れた。 「アレは、N.E.X.Tの仕業だな。 その次のもN.E.X.Tの仕業だ。 その隣のも、ついでに全体的にここから見える、弾けとんだ風船は全部N.E.X.Tの仕業なわけだ」 「大丈夫か、お前」 「大丈夫じゃない」 虎徹がそう答え、アントニオは立ち上がった。 「お前さ、一度友恵さんときちんと向き合って話し合ってみたらどうだ」 えっ? というように虎徹が身を起こした。 「どういう意味だ?」 「お前、返事も保留にしてるんだろ? 一度友恵さんときちんと向き合うべきだ。 終業式以来、お前ずっと逃げてないか。 一度もまともに話てないんだろう? その能力の暴走の件について、一度真面目に話してみるべきだ。 友恵さんが好きだっていうのも、抱きたいっていうのも、全部友恵さんにいうべきだ。 俺に言っても全然解決になってない」 「・・・・・・・・・・」 暫く逡巡するように、虎徹は瞳を巡らせていたが、その後大きなため息をついた。 「言いたい。 俺も言いたい。 でも、怖くてたまらない。 もし、俺が友恵を一生抱けないどころか触れられないなんて悟られたら、嫌われるかも。 そしたら俺どうしよう。 生きていけない」 「そんな筈ないだろう・・・。 俺から見ても、友恵さんはお前の事を相当好いてると思うけどな」 「駄目だ、俺は自信がない」 そう言って、本気で頭を抱える虎徹に、アントニオは気の毒そうな視線を落とした。 それと同時に、自分では気づいていなかったが、ほんの少しの安堵も。 「どうしよう、俺は友恵が好きだ。 好きなのに、触れられない・・・。 こんな状況が永遠に続くとしたら、俺は本当にどうにかなる」 「大丈夫だ、お前はもう充分どうにかなってる」 そう言いつつ、アントニオは虎徹に対して、羨ましいと少し思ってしまったのだ。 それ程迄、誰かを愛せるというのは幸運ではないのか。 それ程までに、愛せる誰かとめぐり合うことができたと言うのは、この世の中で相当幸運な事なのではないのか。 充分お前は俺から見たら幸せだよと、アントニオは思ったのだ。 それでも、だからこその不幸なのかとも思ったのだ。 「俺はもう、結婚して子供も作れる身体なのに、なにもできねえ」 アントニオは虎徹を見た。 「やりたい。 友恵とやりたい。 今すぐやりたい。 マジでやりたい。 友恵だってオッケーなのに、マジなんだよこれ。どんだけ拷問なのよ。 ありえねぇ。 ああもう、どうしていいかわからねえ」 アントニオも虎徹の横で、嫌そうに言った。 「俺も、お前をどう扱っていいのかわかんねえよ。 とりあえず往来で言う事じゃねぇ」 「すけべーな性少年ですからね。 あー、やりたい。 友恵とやりたい」 「でけー声で言うな」 「あー、畜生やりてーよー。 俺気が狂うからな。 あーもう」 「だからもう、どーしてお前は往来でそういうことをでかい声で!」 「無茶苦茶大好きなのに、触れない。 俺は欲求不満で死ぬ!!」 「死ね!」 アントニオは虎徹を思い切り抱きつぶすと、黙れお前は、少しは黙れ!と言った。 虎徹は抱き潰されながら、「この世でお前しか抱けない俺の悲しみが解るか!」と言った。 触れられない悲しみというものがあるのを、アントニオはその時初めて知った。 虎徹はそのせいで身悶えている。 この世でお前しか抱けないという言葉は、恐らく虎徹自身は文字通り、事実だけを伝えていたのだろうが、アントニオは複雑だった。 この世でもし、これから先も、自分以外誰にも虎徹に触れられないとしたら、それはそれで嬉しい事だと、思ってしまったのだ。 しなやかな黒髪の、その癖金色の眼をした、日本由来のN.E.X.T。 この綺麗な生き物を、自分以外が触れられないとしたならば、それはそれで素晴らしく光栄な事だと。 しかし、それと同時にとても寂しかった。 N.E.X.Tは、N.E.X.T以外とは愛し合うことは愚か、触れあうことも許されないのかと。 それは本当に寂しいことだと、アントニオは心から思った。 [mokuji] [しおりを挟む] Site Top |