ハーフエルフの立場がまた厳しいものになるかも知れない。あるいはその罪人が自分の知り合いだったとしたら――そんな心の隙をつき、しいなは研究所から飛び出した。むろんゼロスに会いに行くために。



 ゼロスは放心していた。あまりにも多くのことが現実として襲いかかってきて、混乱していた。
 母が殺された。降り積もる雪、壊れた雪だるま、飛散した雪のかけら、赤い雪、赤い、赤い…。

 おまえなんか うまなければ よかった

 母は絶命する瞬間、何を思ってその言葉を遺したのか。
 ミレーヌはいつでも自分に対してどこかよそよそしい態度だったことに、ゼロスは気付いていた。それが理由のひとつだろうか。
 赤い、赤い、赤い…。おまえなんか、おまえなんか…。
 繰り返し繰り返し流れる、映像と声。ゼロスはただ、放心していた。
 こつん。
 何の音だろうか?
 こつん。
 ここはゼロスの私室だった。他には誰もいない。皆、事件の対応に追われ、あるいは気を使ってか、ゼロスをひとりにしてくれていた。
 こつん。
 はっきりと聞こえた。窓だ。ゼロスはカーテンを開け、自身の身体ほど大きな窓を開く。寒い。雪はまだ止まない。
「……?」
 誰もいない、変わったものは何もない。しかし聞き間違うはずはない。今の音は確かに窓から聞こえてきた。
「…ゼロス」
 後ろを、部屋の中を振り向く。
「…しいな…?」
 驚いた。ミズホの忍なのは知っていたが、窓を開けた瞬間にゼロスの頭の上を越えて侵入したらしい。音もなく。
「どうして…、なぜ、ぼくの家が?」
 窓を閉めながら、ゼロスは問う。
「兵士が、玄関の前にいたから。野次馬みたいなのもいたし。なにより貴族街で一番大きかったから。部屋は…端から順番に、ね。あんたが顔をだしてくれてよかった」
「…そう」
 どこか、心ここにあらずの表情。
「その…、おかあさんが、…その……。あたし、いてもたってもいられなくて。邪魔なら、帰るけど…」
「行かないで」
「…え?」
 口をついて出た言葉に一番驚いたのは、ゼロス自身だった。でも、もう、止められない。
「行かないでよ。行かないで、しいな…」
「ゼロス…」
「…母上が、母上が…!」
 ゼロスはしいなにすがりついた。自分は崩れ落ちるように膝を着き、まだちいさな胸に顔を埋める。
 声は言葉にならなかった。ゼロスは泣いた。幼子のように声をあげて泣いた。
 哀しみが一気に襲ってきた。母に会えない。もう会えない。ただそれだけの哀しみに、泣き続けた。
「…ゼロス」
 たまらなく愛おしかった。しいなは唇をきゅっと結んで、右手は紅の髪に、左手は背中に伸ばす。
「いるから。あたし、ここにいるから…」
 ゼロスは反応しなかった。わあわあ泣いて、泣いて、泣き続けた。
 遠くを見る寂しげな眼差し。こちらに向ける困惑した瞳。ためらいがちな笑顔。後ろ姿に流れる、美しい金色の髪。微かに聞こえた泣き声。
 そんな記憶しかなかったけれど、ゼロスは母を愛していた。もう会えない。
 ちいさな背を掻きむしるほどに抱きしめた。しいなも、ただ添えていた手に力を込め、ぎゅうっと強く抱いた。



 つづく

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