「まだ初夏だから、もう少し経ったらもっと緑は濃くなるし、花も盛りになるよ。また一緒に来ようか」
「え…」
「ぼくたちのデートコースは決まりだね…いてててて」
 頬にあてられた手ぬぐいをぐりぐりと押し付ける。
「…バカ」
 赤い頬。ゼロスはその表情に見とれていた。

 平和な世界。城壁こそあれど、魔物が棲み処から出て来ることは滅多にないし、テセアラ王の統治は堅固たるものだ。こうして子供ふたりが外を散歩出来るのも、全てはこの穏やかな世界があったからである。もちろん、小さないさかいや問題はある。それはしいなにもよく解っていた。しかしそのために自分のような隠密は存在している。だから、陰なのだ。ゼロスのような陽に立つ人間、しいなのような陰に潜む人間。この世界はそうして成り立っている。
 しかし、しいなはまだ知らなかった。陽のゼロスが抱える大きな闇、平和なテセアラが踏みにじる大きな苦しみを。



 夏が過ぎ、秋を見送り、ゼロスは12歳、しいなは9歳になっていた。
「雪…」
 研究所の窓から見える光景に呟く。
 メルトキオはあまり雪が降らない地域だとゼロスは言った。去年も、確かに小さな雪だるまを作るのでやっとな程度しか降らなかった。
 しかし、今朝は随分積もった。
 ――会いたいな。
 ぽつり。唇から声にならない声が漏れる。話したいことがある。
 この雪は、別れの言葉には相応しいかも知れない。

 しいなは、ふらふらと貴族街に向かう。赤い髪、彼の一番の特徴を探す。
 ふと、悲鳴が聞こえた。続く声。走る王国騎士や教皇騎士たち。あっと言う間に、貴族街に人だかりが出来た。一般人の群れの中に、騎士たち。それが何を囲んでいるのかは解らない。
 胸がざわざわする。嫌な予感はしたけれど、この人垣ではどうしようもない。
 日を…いや、時間を改めよう。午後、昼食後にまた来よう。きびすを返した。



 数人の研究員と昼食を取っていると、また別の研究員が飛び込んできた。
「おい、大変なことが起きたぞ!」
「どうした、そんなに慌てて…」
「ハーフエルフが反逆罪で捕まった」
 部屋の空気がざわめく。そうだろう、ここの職員は大半がハーフエルフだ。
「…何があったんだ」
 全員が食事の手を止める。説明を待った。
「今朝、貴族街で騒ぎがあったのを、誰か知っているか?」
「あ…、あたし…」
 全員の視線が集まる。
「…どうして、しいなが貴族街に」
「そんなことはいい、すごい兵士が来ていただろう?」
「う、うん」
「要人が暗殺された」
「え…?」
 まさか、まさか…。
「いったい誰が殺されたんだ」
「…ミレーヌ様だ」
 聞き慣れない名前にほっとしたのもつかぬ間。
「ミレーヌ…ミレーヌ・ワイルダー様か!」
 しいなは動揺した。ゼロスと同じ姓を持つ女性の名前。テーブルにぶつかった拍子にフォークが落ちたが、気に留める者は誰もいなかった。
「そんな…。よりにもよってミレーヌ様が…」
「あの…、ミレーヌ様って…?」
 ためらいがちにしいなが問う。研究員のひとりが答えた。
「亡くなった神子さまの奥方…、つまり、次の神子ゼロス様の母上だ」
「!」
 ゼロスの、おかあさんが、殺された…?

「…父上は、いない。母上も、ぼくの心配をするほど暇じゃないし…」

 あのときのゼロスの目を思い出す。哀しい、愛しい目。胸が締め付けられるような切ない目。
 冷静さを欠いた研究員たちの目を盗み、しいなはそっと立ち上がった。

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