天使さま2


紫苑は無防備過ぎではあったが、とても頭がいい人物だった。
頭がいい、という言葉では足りないくらいに博識で賢く、たくさんのことを知っていた。
彼と話をしていると、時を忘れるほど夢中になれた。自分の知識欲が満たされて行くのを感じた。

「トーリったら、紫苑を独り占めするんだもの」
アメも呆れ顔で言い放つほどだ。
その言葉にすっかり顔を紅く染めてしまったのは、言うまでもない。

紫苑とまだまだ話し足らなくて、つい彼に懇願してしまった。
「明日もまた来ますか?」
「うん、お邪魔じゃなかったら」
明日の約束など、今までしたこともなかった。

読み書きを教えている子どもたちとだって、明日の約束などしていなかった。なんとなく集まって、その子たちに教えていたのだ。
深く関わり合うことは、御法度だから。


けれど、紫苑が明日もまたここに来てくれる。それだけで飛び上がりたくなるほどに嬉しかったんだ。



それから数日、紫苑は毎日のようにあの小さな廃屋にやって来た。ぼくと同じように、読み書きを子どもたちに教えてくれた。
彼はとても教え方が上手だった。


「紫苑はどこから来たんですか?」
ぼくの問いに、紫苑は困ったように微笑んだ。
「向こう」
「……まさか、壁の内側から?」
薄々と、気づいてはいた。きっと紫苑は西ブロック出身ではないと。
「もう壁は無くなったよ」
「紫苑、心の壁は無くなりません」
「そう、だね」

紫苑はぼんやりと、夕日に染まる川の水面を眺めていた。
その背中はひどく寂しげで、小さく見えた。

「やっぱり、紫苑は天使?」
盗み聞きしていたらしいアメがひょっこり現れた。
「ん?」
「靴屋のおじいちゃんが言っていたわ。あの壁の向こうは楽園なんですって」
「アメ、それは皮肉だよ……」
ぼくはため息がちに言葉を洩らした。
靴屋のおじいさんは偏屈で、事あるごとに「あの壁の向こうは楽園さぁ。おれたちみたいな虫けらの上に成り立ってんだぁ」と赤ら顔でがなり立てていた。

「ひにくって? ねえ、紫苑。あの壁の向こうってどんなところ? わたし行ったことないの」
「……何もないよ、中身のあるものは。だからこれから作っていくんだよ」
「紫苑、あなたはNO.6の関係者ですか?」
思わず口を挟んだ。
難しい話になってしまった、とアメは事の成り行きを見守っていた。
「どうして?」
「崩壊したあの都市で、新しく再建委員会が発足されたと聞きました」
「さすがトーリ。賢いね」
「茶化さないでください。紫苑、あなたは再建委員会のメンバーですね? だから西ブロックに度々訪れて、内情を調査していた」
「うん、そのとおりだよ、トーリ。でも、ついこの間までぼくも西ブロックで生活していたんだよ」
冬の、ほんの少しの間だけ、と彼はようやく聞き取れるような声で付け足した。


紫苑は草むらから立ち上がった。尻についた草をぱんぱんと払っている。
「紫苑、あなたは何をするつもりなんですか?」
「約束、したんだ。ぼくはあの都市は新しく、生まれ変わらせないといけない」
「え?」
あまりに悲しそうに笑うものだから、聞き返してしまった。
逆光で、橙色の光が紫苑を縁っていた。


その光景がとても儚くて、紫苑は光に溶け込んで消えてしまいそうだった。
しかし、実際に消えてしまったのは彼ではなく、アメだった。


死はいつも残酷で、身を潜めて、唐突にやって来る。でもまさか、アメが死ぬなんて思わないじゃないか。
市場の片隅で、衣服を真っ赤に染めて冷たくなっていたアメ。誰かに手をかけられた、ということだけは分かった。





紫苑とぼくは、二人で無言のままアメのお墓を作った。
紫苑と出逢った、あの原っぱにささやかなお墓を。
どうか、天国でアメがユメとまた出逢えますように。もう痛くありませんように。


「……こういう時、鎮魂歌を歌えたらいいんだけれど」
そう呟いた紫苑は泣いていた。小さく肩を震わせて、嗚咽を漏らしながら。
しばらくそのまま二人で身を寄せ合い、時間がゆったりと流れた。

「どうして、アメ、なんで……」
ぼくも、みっともなく泣いた。しかし、いくら泣いたってアメは生き返らない。
いつだってこの西ブロックは弱い者から死んでいく。無慈悲に、罪のない者さえも。


「銃で誰かに撃たれたんだ……出血性ショック死だと、思う」
紫苑の横顔を窺う。髪で隠れて、よく表情が見えない。けれど、幾筋もの涙の跡が頬に流れていた。


紫苑がふいに顔を上げた。泣きすぎたせいか、鼻の頭が赤い。
彼は柔らかく微笑み、そっと腕をこちらに伸ばしてきた。カーディガンの袖で、ぼくの涙を拭った。
あまりに恥ずかしくて、思わず顔を背ける。まるで幼子だ。



「トーリ、ぼくと一緒に来る?」
それは甘やかな誘いだった。
悲しく笑う彼を抱きしめたい衝動に駆られた。

「きみにもっといろいろなことを教えてあげたい」

知りたい。

知りたい、いろいろなことを。
あなたのことも。


ごくりと、唾を飲み込んだ。
自分の中に湧き上がる希求に戸惑った。



「ぼくにはきみが必要だ」
「ぼくが?」
「アメみたいな子を増やしてはいけないんだ……」
そう言った紫苑の目には固い決意が秘められていた。

「ぼくに力を貸してほしい。トーリ」


遠い昔、母に散々言われてきた言葉が走馬灯のように溢れ出す。
「おまえなんかいらない」
「なんでおまえが生きている? どうしてあの人が死んだ?」
「穀潰し」
「おまえなんて生まれなければ、わたしは幸せになれたのに」
「おまえなんか、産まなきゃよかった!」



彼は……紫苑はぼくを必要としてくれる。
母はぼくを愛してはくれなかった。彼なら、もしくは、あるいは。



「……子どもたちが、笑って暮らせる都市になりますか?」
「ぼく一人では無理だよ」

あるいは二人なら。


子どもたちに罪はないんだ。
紫苑が掲げる理想なら、ぼくは着いて行きたいと思った。

「どうして……ぼくなんですか?」
「きみは人を失う辛さを、痛みを知っているからだよ」

そう穏やかに話す彼こそ、大切な人を失う辛さを知っている瞳をしていた。


彼は確かに天使さまだった。
その日から、ぼくの天使さまだった。




END






:) Thank you! 壱歌



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