天使さま1


NO.6という都市国家が崩壊したらしい。
あの鋼鉄の城のような都市が。

それはにわかに信じがたいことで、どこか夢のような話だった。

ぼくにとって、NO.6崩壊は喜ばしいことであった。あの都市のせいで、ぼくの家族はめちゃめちゃになったのだから。


教職にあった父は都市の思想に疑念を抱き続けていた。それを危険視したNO.6のお偉いさんたちは、父を殺した。
ああ、殺したんだ。
生まれたばかりのぼくと、うろたえるばかりの弱い母を残して、父はいなくなってしまった。あの都市に消されてしまった。


その日、父は市庁舎へ向かっていた。
「今日は市長と、話し合いの場を設けてもらった。教育理念がどうあるべきか、とことん話し合ってくるよ。子どもたちの未来を無限大に広げるためにね。この子の未来を守るために」
そう言って眠るぼくの額にキスをして、家を出て、それっきり帰って来なかったそうだ。


母が都市に何を言っても、父に会わせてくれることはなかった。
「そんな人物は市庁舎に来ていない」
の一点張りだったそうだ。母の訴えは無残に散った。
父は行方不明者扱いだった。かと言って都市が探してくれるはずもなかった。



身の危険を感じた母は、乳飲み子のぼくを連れてNO.6から逃げ出した。
ほどなくして、西ブロックとNO.6の間には強大な壁が築き上げられた。
もう、簡単に行き来はできなくなった。


ぼくは、周りの大人たちのNO.6への恨みつらみを聞きながら育った。あの環境で、よく今日まで……ここまで育つことができたなあと感慨深く思う。


とくに母は毎日のように、日々を嘆き、NO.6を恨み、ぼくを責めた。
母は弱かった。父がいなくては、真っ直ぐ立つことが出来なかったのだ。
母にとって、父への愛こそが本物だった。その愛情を目の前の息子に向けてくれることはなかったけれども。




「ねえ、トーリ。あっぷるぱい、って字これで合ってる?」
痩せ細った小さな女の子が、顔を上げた。
汚れ切った藁半紙に、磨り減った鉛筆で一生懸命文字を綴っている。ゆらゆらと遊びに行ってしまいそうな文字だが、辛うじて「あっぷるぱい」と読み取ることができた。

「ああ、すごいじゃないか。アメ、よく『ぷ』と『ぱ』を間違わずに書けたね」
にっこり微笑んで頭を優しく撫でてあげると、アメと呼ばれた少女は照れくさそうに「えへへ」と笑った。

「トーリ、ぼくも見て」
アメの隣に座っていた男の子が、羨ましそうに唇を尖らせて言った。
「わあ、たくさん書けたね」
「ぼくも」
「わたしも」
仕切りに子どもたちが手元の藁半紙を揺らす。
「ふふっ。はいはい、順番に見るからね」


ぼくはこの小さな秘密基地みたいな廃屋で、子どもたちに無償で読み書きを教えていた。
教師であった父の血を引いているからだろうか。
本を読むこと、学ぶこと、人にものを教えることは好きだった。天性のようなものを感じた。





この廃屋には、年齢も性別もばらばらの子どもたちが読み書きを習っていた。
先日の大きな人狩りで、なんとか形を保ったまま残った廃屋だ。半分ほど吹き飛んでいたので、外から中はまる見えの状態だった。
まる見えと言っても、廃屋の周りは瓦礫だらけだったのでうまい具合に紛れていた。

外の大人たちは、途方も無く瓦礫の上を歩き、あるいは何か落ちていないか探索していた。みんな下ばかりを見ていた。


本当にあのNO.6が崩壊したのだろうか?
疑いたくもなる。一体何が変わると言うのだ?
壁が無くなったとして、また新たな独裁者が君臨するだけではないのか? 同じことをただ、ただ、繰り返すだけ。
ぼくたちの生活は、何一つ変わらない。


「ねえ、トーリ」
「ん? なんだい、アメ」
アメは文字を書く手を止めて、トーリをじっと見つめていた。
「トーリは天使さまに会ったことある?」
「天使? いいや」
「どうやったら会える?」
純粋な問いに、ぼくは膝を追って彼女と目線の高さを同じくらいに調節した。
「アメはどうして天使さまに会いたいの?」
「ユメは天国で元気にしてますかって、天使さまに聞きたいの。わたし、手紙を書くわ。天使さまに、ユメへ手紙を届けてくださいってお願いするの」
アメは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に、ぼくは胸が引き裂かれる思いがした。

「ユメは天使さまが天国に連れて行ってくれたんだよね? トーリがこの前読んでくれたお話、なんだっけ」
「フランダースの犬?」
「うん、そう。ネロとパトラッシュを天国に連れて行ってくれたのは天使さまでしょう? ユメも天使さまがお迎えに来たのよね?」
「うん、そうだね……」
「ユメ、天国でお腹いっぱい食べれたかしら。いつも腹ぺこだったの。もうどこも痛くないかしら」

ユメ、とはアメの一つ下の妹だった。
先日の人狩りで死んでしまった。
ユメの命を奪ったのは、あの憎きNO.6なのだ。

ユメだけではない。
ぼくが読み書きを教えていた子どもたちの半分は、人狩りによって命を落としてしまった。あるいは子どもたちの親、兄弟、家族の命を。


「どうやったら、天使さまに会えるかなあ」
そう呟く幼げな横顔を見つめながら、ぼくは歯を食いしばった。





あくる日、ぼくがまた子どもたちに読み書きを教えていると、アメが声を潜めて小走りでやって来た。
「トーリ、聞いて、大変」
「やあ、アメ。どうしたの?」
「トーリ、わたし天使さまを見つけたわ」
頬を上気させて、アメは言った。目はらんらんと輝いている。
「えぇ?」
「天使さまがいたの」
アメは一体何を天使と見間違えたのだろう。
呆然としていると、アメがぼくに耳打ちした。
「みんなには内緒よ、トーリには特別に教えてあげる」
来て、とアメは手招きした。


文字を一生懸命書いている子たちを尻目に、ぼくはこっそり廃屋から抜け出した。
西ブロックの子たちは強かだ。ぼくがいなくとも、十分に自分で考え行動できる。

「こっち!」
アメはぴょん、ぴょん、と跳ねるように瓦礫を駆け上がっていく。子どもは身軽だ。



「ほら、あそこよ。静かにね、パトラッシュもいるんだよ」
アメが指し示す方向には、確かに真っ白な人が草むらに仰向けで寝ていた。
近くにはその白い人物を守護するかのように、茶褐色の犬が座っていた。
「アメ、あの犬はパトラッシュじゃないよ」
「そうなの? じゃあ、パトラッシュの生まれ変わり? 天使さまの傍にいるもの」

ぼくはゆっくりと草を踏み締め、近づいてみた。
寝ている人物の髪の毛は透明のような銀色のような白髪で、日の光にきらきらと輝いて見えた。老人だろうか?


茶褐色の犬が、こちらをじっと見ている。
何かしたら噛み付いてやるぞ、と言わんばかりの雰囲気を醸し出していた。

草の上で寝ている人物は、若い男だった。いや、男と言うには幼い。少年のようだ。
美しい銀糸の髪が、若葉色に広がっている。
瑞々しい頬と首には紅い、蛇のような痣が這っていた。それが続いて服の中に消えているので、あの痣はきっと全身にあるのだろう。
顔立ちは愛らしい、と呼ぶに相応しい容姿だった。目は固く閉じられており、長い睫毛さえも白い。
なるほど、アメが天使と呼ぶのも頷ける。


まさか。死体じゃあないよな?
しかし、薄い胸がゆったりと深く上下していたので生きていることを確信した。


あまりにじっと見つめて観察していたせいか、羽毛のような睫毛がふるふると震えた。
ゆっくりと開かれた瞳は紫がかった黒。
思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。


天使さまはぼくと目が合うと、にっこり微笑んだ。
心臓が跳ね上がり、体温が上がった。

「こんにちは」
「こ、こんにちは」
声が裏返ってしまった。らしくない。


彼は伸びをしながら、身体を起こした。
ふわふわと風に揺れる白髪には、雑草の花がついていた。
ぼくは吸い寄せられるように、彼の頭についた小さな花を取ってあげた。

「どうもありがとう」
また心臓が跳ね上がる。
「天使さま!」
ぼくの後ろからアメが顔を出した。
天使さま、と呼ばれた彼は一瞬きょとんとした。次いで、きょろきょろと辺りを見回す。
「天使さまって?」
「あなたは天使さまじゃないの?」
「ぼくは天使じゃないよ。人間だよ」
「えっ違うの。じゃあどうして、そんなに真っ白な頭をしているの?」
子どもは素直に疑問を口に出す。

「アメ」
ぼくは小さく窘めた。ここではみんな、何らかの事情を抱えている人がほとんどなのだ。
きっと目の前の彼だって、例外ではないはず。

白い人は気を悪くした風も見せず、優しく微笑んで首をかしげた。
「きみはアメっていうの?」
「うん。あなたは?」
「ぼくは紫苑」
「紫苑? わたし知っているわ、花の名前ね」
「そう。よく知ってるね」
「トーリが植物図鑑を見せてくれたのよ」
アメは照れくさそうに、ぼくの服の裾をもじもじと弄っていた。
「へえ」
紫苑はぼくを見上げた。
ぼくまでなんだか照れくさくなってしまう。
「きみがトーリ? よろしくね」
紫苑はぼくに握手を求めてきた。握手なんてする人、この西ブロックにはいない。
戸惑いながらも、ぼくは紫苑の手をおそるおそる握り返した。

何かの罠かもしれない。
西ブロックでは油断したら最後、それが命取りになる可能性がごまんとあるのだ。
しかし、握った掌は優しく、温かかった。不思議な人だ。


「トーリは読み聞かせをしているの?」
「え? あ、いや、子どもたちに簡単な読み書きを、教えて」
しどろもどろになって答えると、紫苑は両の目を輝かせた。
「ぼくも見に行っていい?」
意外な反応だった。
つい今知り合ったばかりなのに、こんな簡単に着いてきて大丈夫なのか、とこっちが問いたくなってしまう。


護衛するように鎮座する犬に視線を向けると、意図を察したように紫苑が言った。
「この子は賢いんだ。きみたちが近寄っても、威嚇しなかった」
だからきみたちは危険な人じゃない、とでも言いたげだった。彼の双眸には強い光が宿っていた。



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