「じゃあね」


見たことのない顔で、無表情に妻はそう言った。
決してわたしと目を合わせない妻に、ああ終わりなのだなと、妙な実感が体を小さく震わせた。
手にした離婚届けには二人の判が押してある。
届けを出すのはわたしの役目だ。
わたしがこの田舎に左遷同然で異動になったとき、妻は笑って「付いていくわ、どこだって」と言った。
そこには確かな愛情があり、また、わたしの確かな自信に繋がったものだ。
愛されているという自信は、人を心を豊かにする。
そうしてわたしは努力した、少しでも早く元いた場所へ戻れるようにと。
そうして無我夢中になって、妻を顧みることがなくなった。
毎日毎日手渡される弁当が煩わしくなり、わざと忘れた振りをすることが多くなった。
少しずつ、確実に成果を上げた仕事先で、女と遊ぶようになった。
気づかなかったのは何故か。
そこには、在りし日に裏打ちされた紛うことなき愛情をどこかで信じている自分がいたからだ。


「別れましょう」


ある日突然、降って湧いたような決意を耳にするまでは。
「否」とは口に出来なかった。
たったひとことで、全てを悟ってしまった。


「バスが来たわ」


小さな田舎のバス停で、最後の妻の姿を焼き付ける。
確かにあった愛情を焼き付ける。
例えこの先、元いた場所に戻ったとしても、取り戻せないものを焼き付ける。


「さようなら」
「元気で」
「ええ」


「あなたも」とは言ってもらえなかった。
立ち止まってしまったのはわたしだけで、妻はもう、全てを断ち切ろうとしている。
バスに乗った妻を見詰めたが、やはり、振り向いてくれることはなかった。
排出音と共にバスが遠ざかっていく。
愛した日々も遠ざかって、そうしてもう、見えなくなった。



_20090504

愛した日々



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