Chapter 3


「オロフとリカルドのこと。知っているわ」
「あれが起きることを、知っていたか?」

 平坦でもあり震えているようでもある男の声は、吸いこんだ花の香に潰れかけているようでもあった。

「知っていた、と、言ったら――」

女の右手首を、無造作に男が掴む。女を鷲掴む男の手は床を目指し、引き摺られた女は身体の均衡を崩してよろめいた。踊るように回った女の爪先が、床に敷き詰められていた花弁の調和を乱す。浮き上がった女の踵を花びらが追った。腕を捻るようにして女の腰を抱いた男は、淡雪のような長い髪の軌跡に視界を霞ませながら、女の背を長椅子に押しつけた。女の肢体を受け止めた長椅子は撥ね、その弾力を圧するように、男は女を掴む手に力を籠める。
それまで蜜のようでしかなかった女の目が、鋭さを帯びた。

「もし知っていたとしたら、わたしにどうして欲しかったの? 教えて欲しかったの?  ロダの夜であるわたしは、ロダの昼を揺さぶる術なんて、持っていない。ラミズが時々立ち寄ってくれるように、キャレがあえてわたしを通してあなたに行商で回っている土地の情勢を伝えようとしてくれるように、ロダに関わる人たちはそれぞれが得たものの欠片をわたしにくれる。だから、わたしは、ロダの夜の昼も、内も外も、ある程度は知ることができる。カトヴァドの封鎖によって、ロダの塩が流れにくくなったことは知っている。新たに見つかった塩鉱によって、ロダの塩に以前ほどの稀少さがなくなったことも知っている。それにより、ロダにおいて多少なりとも塩に関わっている家が、急激に蓄えを減らしていっていることも、予想はできる。零落の途上にあって対策を打とうとした時、真っ先に虐げられるのが誰であるかは、言うまでもないわね。彼らがその原因をカトヴァドの封鎖からロダと教会の間の駆け引きに求めるということも、その矢面に立っている聖ヴェリカ教会の面々に求めるということも、推測はできる。だけど、それらから導かれる不穏さはせいぜいが根拠のない予感のようなものであって、あの時あの場所で何かが起こるということに、わたしはつなげられなかった」

 女を組み敷く男の唇が結ばれる。金緑の髪が隠す男の目許を、女は見上げる。

「キャレに御遣いをさせて、あなたが知りたかったのは、シルウァ族の動向なんかじゃないのでしょう。そんなもの、大陸中に支店を持つ商会の事実上の取り纏め役であるあなたには、毎日のように報告があがっているはず。あなたは、それそのものではなくとも判断の手掛かりになるような出来事や物の動きが文書として集積する、ノルドヴァル商会の終着点だもの。それでも、あなたがキャレにわたしの様子見をさせたのは、わたしが逃げずにいるかどうかを確かめさせるためではなかったのかしら。あなたは、必要とあらば、疑いたくない誰かでさえ疑える。わたしはあなたのそんなところが好き。だから、わたしを信じられないのなら、信じてくれなくていい。だけど、だからこそ、言わせてもらう。わたしは疑われるのが嫌いなの」

 花の香が濃さを増す。燭火のさざめく黄金が、女の碧の目に星屑をばら撒いた。

「前にも、こんなこと、あったでしょう。唐突で、真意が見えなくて、おそらくは主犯など引き摺り出せていないにもかかわらず、そのままないものとされた出来事が」

 静謐な碧の底にあった怒りが、降り注いできた黄金を弾いて表層にちらつく。男の片脚が触れるやわらかな大腿の内をもって、女は布越しに男の緊張を汲む。冷えていくにつれ砕け散りそうになる冬の大気のような声が、男の唇から落ちていく。

「確証は」
「ないわ。でも、それらの繰り糸が、わたしたちが知れない領域から伸びているとするのなら」
「アンスガルは」
「もう、ずっと前に、気づいていたのかもしれないわね。確証を得られずに、それでも靄を掴むように、あなたが疑っていたのと同じように。同じ教皇派ではあっても、ヴェッターグレン家ならば、先代まで異宗派であったノルドヴァル家よりも帝国国教会に近しい。だから、アンスガルなら、わたしたちに掴めない何かを掴めていたとしても、おかしくはない」

 女の枷たる男の手がわずかに緩む。男を仰いだまま、豊かな髪に頭を埋めて、女は小首を傾げて見せた。

「ヴェイセル」

 男を呼ぶ女の声は、ひどく優しい。

「甘えに来たの?」

 否定を許す問いのかたちをもって、女は確信を投げる。

「悔しいの? わたしは悔しいわ。わたしも、あなたも、何もできなかった。これだけは、もう、どう足掻いても変わらない」

 花のかたちをした影がそこここで踊る。女の声はひどく甘く、男を絡め取り、沈めていく。

「オロフもリカルドも、楽しい思い出をたくさん贈ってくれたわ。それらはとても大切で、ひとつとして手放したくなどないのだけれど」

 黙したまま、男は奥歯を噛む。

「返すことができなくなってしまったとなると、大切なはずのそれらは、毒のようでしかないわね」

 紅が艶めく唇から、乾いた息が零れた。緩慢に、男が頽れていく。傾いでいく金緑の髪を、女は横目で見遣る。息をすることすら忘れているかのような男が、女の肩口に顔を埋める。男の手から力が抜け、それまで男に掴まれていた女の腕が床に落ちた。散乱する花を濡らしている燭火が、細い手首にある男の指の痕を照らす。繊手の指先に当たった花が、ゆらめく灯の波に遊ばれながら、音もなくばらけ、崩れていった。

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