Chapter 5


◇◆◇◆◇◆◇

 何かがおかしい、と、思い至りはしても表明することはままならない。
 セルヴ・ノレーイア・トゥルスが到達した心境は皮肉っぽい冷笑に姿を変える。
 ティエル第三層ユスキュダル・バニヤス邸。色づき瑞々しさを失った葉が申し訳程度に残る樹樹に埋もれた離れの、その一室。

「何か?」

 窓枠に両腕を置いてその上に顎を載せて外を眺めるトゥルスの、窓硝子に映ったその表情の微細な変化を目聡く捉え、やや離れた背後から短く問うてきたのは長身で痩身の黒髪の青年。不健康ではないものの目を惹く白皙の肌と紫紺の虹彩は北方民族の特徴。物静かな佇まいで書物の頁を捲る様は大気に溶けているように気配が稀薄だが、顔立ちの控えめな端整さと相俟ってか、纏う雰囲気には氷柱に似た鋭利なまでの透きとおった怜悧さが目立つ。
 白皙の肌に際立つ艶やかな漆黒の髪を右肩のあたりで無造作に括っただけのそのテウトニー族は、視線だけはしっかりと後方に向けられている十近く歳の離れているアルウェルニー族のふれくされたような横顔に、無言ではあってもその切れ長の目にうっすらと困惑の色を滲ませた。
 アルベルトゥス・ラエルティオス。
 帝国議会を構成する諸侯会議。その議員である准爵――ウィリアム・アリンガムの、表向きにはその存在が秘匿されている顧問のひとり。
 もともとは海運商であったウィリアム・アリンガムが爵位を買う際に口利きした恩人がユスキュダル・バニヤスであり、現在もその繋がりは確かに息づいている。アリンガムの海運商時代に主であるアリンガムの許で法務処理を担当し、そこで稼いだ金で自由を買い取った解放奴隷。それが、アリンガムの顧問にして彼とバニヤスとを密かに橋渡しをするラエルティオスだった。
 その青年とトゥルスが同室していることにさほど意味はないが、トゥルスがバニヤス邸を訪問することになった経緯についてはちょっとした意味合いがある。

「何かご不満でも?」

 初対面ではない――ヴァースナーが帝都に雇われて以来、トゥルスは何度もバニヤス邸に足を運ばざるをえない状況に放り込まれている――ものの相変わらず真意を量りかねる、遠回しなのか端的なのか判然としない物言いに、トゥルスは小さく溜息を吐いた。そして、立ち上がって振り返り、それまで腕を置いていた窓枠に後ろ手を置く。

「そんなに僕が不機嫌そうに見える?」

 わずかに首をかしげ正面からそう問いかけるトゥルスは、誰がどう見ても、むしろいかなる世辞の達人をもってしても、不機嫌としか形容しえなかった。それはそれまで遊んでいた玩具を突然に取り上げられた幼子がふてくされる様に酷似している。
 その様子があまりにも判りやすかったので、くすり、と、思わずラエルティオスは微笑ってしまった。勿論、トゥルスはその表情をもって更に不快さを顕にする。

「失礼」
「謝るくらいなら最初から笑うものじゃない」

 そっぽを向くトゥルスに、微笑を隠しきれないでいるラエルティオスは、再度、失礼、と謝意を表してみせる。

「お迎えが遅いから、ですか?」
「別にそういうのじゃないさ」

 微笑の名残を留めるテウトニー族に、トゥルスはゆるくかぶりを振ってみせた。
 傭兵オルトヴィーン・ヴァースナーが帝都に雇われ、市民軍の長として立ったのは半月ほど前。トゥルスがバニヤス邸を訪れるようになったのはその頃からだが、それはヴァースナーの実質的な雇用主がバニヤスだったからに他ならない。帝都という幕を通したその裏には、帝国を俯瞰する大商人が控えていたわけだ。
 大商人が欲しがったのは、帝都下層のありのまま。
数ヶ月をアウグスト同盟に属する諸侯軍に包囲された帝都には閉塞感が蔓延し、実質的な物不足から下層における差異の激化が進行する。それなりに満ち溢れた時代に友人であった隣人は、現状においては、正規の帝国民ではないにもかかわらず帝都において生存という権利を謳歌しているならず者にしか見えなくなる。その結果は言うまでもない。
 だが、帝都は解放を待っている。
 その目的が存在する限りは、目的を同じとする同胞として受け入れられる場合もあった。ゆえに、ティエル市民によって構成されるヴァースナーの兵には、市民ではないものの志願というかたちで自らの――自らが属する集団の――有用性を証明しようとする者も少なくなかった。そして、帝都は選り好みができる状況にはないということも、これを加速させる。諸侯軍は包囲からの数ヶ月、獲物が衰弱することをただ待っていたわけではない。小競り合いは日常となり、その度に補給手段を持たない帝都は身を削られる。帝都は、物だけではなく、人も不足していた。これが招く結果は――――。

「取るに足らないと見くびっていた者たちが、影響力を有するようになる」

 先刻面会したユスキュダル・バニヤスの言葉を――愉快そうに語られたそれとは全く異なる冷えた調子で――北方異民族が口にする。
 しばしの沈黙の後。

「あいにく」

 どことなく不敵な笑みを描くその唇を持ち上げたトゥルスの深い緑の目の先で。

「あいにく、僕はそういったものに興味はない」

 凍てつく大気のように透き通って静かなラエルティオスは、かすかに、その紫紺の目を細めてみせた。

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