歩き続ける男
童話風味です
ずっと、歩き続ける男がいました。雨が激しく降っても、風が強く吹き付けても、うだるような暑さの中も、雪が積もりしきる中も、ずっと歩き続けました。
男が森深くを歩いていた時です。一匹のリスが男に話し掛けました。
「お兄さんお兄さん、どこから来たの?」
「さあ、どこだったかな」
「なんで歩いているの?」
「悲しみから逃げるためさ」
「じゃあ悲しみに負けないように、このお守りをあげるよ」
「ありがとう」
男はリスから小さな木の実を受け取り、また歩き出しました。
男が広い草原を歩いていた時です。一頭の馬が男に話し掛けました。
「おじさんおじさん、どこから来たのですか?」
「さあ、どこだったかな」
「なんで歩いているのですか?」
「さあ、なんでだったかな」
「いつから歩いているのですか?」
「もうずいぶん前からだよ」
「なら疲れたでしょう。どうぞ私の背に乗ってください」
「ありがとう」
男は馬に乗り、また歩き出しました。
男と馬が川のそばを歩いていた時です。一羽の鳥が男に話し掛けました。
「おじいさんおじいさん、どこから来たんだい?」
「さあ、どこだったかな」
「なんで歩いているんだい?」
「さあ、なんでだったかな」
「いつから歩いているんだい?」
「さあ、いつからだったかな」
「誰か逢いたい人がいるのかい?」
「そうだね、逢いたい人がいるよ」
「じゃあ僕がおじいさんの目になって探してあげよう」
「ありがとう」
男は自分の肩に乗った鳥をひと撫でして、また歩き出しました。
男と馬と鳥は歩き続けました。何日も何日も、暗い闇の中を、眩しい日差しの中を、薄い霧の中を、歩き続けました。
そして海の見える丘に出た時です。男は馬から降りて、肩から鳥を飛び立たせて言いました。
「おや、この場所は見覚えがあるような」
「おじいさん、向こうに赤い屋根の家があるよ」
「おじいさん、行ってみましょう」
男と馬と鳥は赤い屋根の家に向かいました。それは小さな家でした。何年も誰も住んでいないのか、壁を蔦(つた)が這い、中は埃まみれでした。
「誰もいないみたいだ」
「そうだね、もう誰も住んでいない」
「おじいさん、何か知っているのですか?」
「あぁ、知っているよ。ここは私と彼女が住んでいた家だから」
「彼女?」
馬の背に止まった鳥が首を傾けて聞きました。
「そう、彼女だ。私が愛した唯一の人」
「でもここにはいないね。僕が飛んで探してこようか?」
「私も走って探してみましょうか?」
今にも駆け出しそうに鳥と馬が言いました。けれども男は片手を上げて、一羽と一頭を止めました。
「いや、いいんだ。思い出したから」
「思い出した?」
「お前たちのおかげで思い出せたんだよ」
ありがとう、そう言って男は静かに話し始めました。
男は愛する彼女と結婚をして、海が見える赤い屋根の家に住んでいました。彼女は海が好きでした。そして、それ以上に男を愛していました。幸せな時でした。永遠に続く幸せだと男は思っていました。
けれど、彼女が事故に遭ってしまいました。不慮の事故でした。海に、波に連れ去られ、変わり果てた姿で亡くなっていました。男は悲しみました。彼女の亡骸を抱き締め、何日も泣き続けました。彼女を奪った海が大嫌いになりました。そうして、男は海から逃げるように歩き出したのでした。
歩き続けて、歩き続けて、あまりに長く歩き続ける中で男はどこから歩き出したのか、なぜ歩き出したのかを忘れてしまいました。訳の分からない悲しみだけが残りました。
「だけど、リスと出会ってお守りをもらった。すると不思議なことに悲しみを乗り越えれたんだよ」
「よかったですね」
「あぁ。それからお前に会った。お前は私の疲れを癒やしてくれた」
男は馬を撫でました。馬は嬉しそうに鳴きました。
「僕は?おじいさん、僕は?」
「お前は遠くまで見てくれた。この使い物にならなくなった目の代わりに」
男は鳥を撫でました。鳥は嬉しそうに鳴きました。
「どうしてだろうね、あんなに憎かった海もこの家も、今は懐かしく思えるよ。…とても愛おしく思えるんだ」
赤い屋根の家のそばで男は座りました。そこは海が一望できる、彼女と男のお気に入りの場所でした。
「少し疲れたから休むとしよう。お前たちも好きなところに行きなさい」
「では、おじいさんのそばにいます」
「僕も疲れたからおじいさんのそばで休むよ」
男と馬と鳥は歩きません。座って穏やかな海を見ていました。
「ありがとう」
男はリスからもらったお守りを握り締め、眠りにつきました。馬と鳥も、男に寄り添うように眠りにつきました。
歩き続けた男
数年後、海が見える赤い屋根の家のすぐそばには、小さな優しい木が立っています。
20110312
ちっぽけな思いと、たくさんの願いを込めて
ススム モクジ モドル