君の体温

※栄口と阿部の話









 練習後。早々に着替えを終え、エナメルバッグを肩にかけて立ち上がった。

「じゃ、おつかれー」
「勇人じゃーなー」
「おつかれッス!」

 チームメイト達と挨拶を交わし、手を振ってからフェンスの扉に手をかける。
触れた冷たい金属は塗装が所々剥げ落ち、錆のにおいがした。


 冬。冷たい風が少し伸びた前髪を揺らす。
夏の大会が終わりシニアチームを引退して数ヶ月経ったが、勉強の合間に度々練習に顔を出していた。
受験に向けて勉強をするのは誰でもない自分のためであるが、やはり運動不足は身体に悪い。
少しのことで柄にもなくイラついたりする。
そして人や物に八つ当たりしてしまった後に自己嫌悪に陥り、そんな自分にまたイライラするという堂々巡りだった。
 野球をしたあとはいつも心がすっきりしていた。仲間と一緒に身体を動かし汗を流すのは心地良い。
しかし高校に進学してから野球を続けるかどうかは正直悩んでいた。
母が亡くなってからというもの、自分と弟の面倒をよく見てくれている姉にこれ以上迷惑をかけるのは憚られた。
姉は迷惑なんて思ってないと言うだろうが、自分が嫌なのだ。
高校では帰宅部になろう。そうすればもっと家の手伝いができる。姉への負担を減らせる。
そう思うのだが、野球への想いも捨て切れずにいる。


 首に巻いたマフラーに顔を埋めながら土手を歩いていると、河川敷の草の中にひょこひょこ動く黒いものを見つけて立ち止まった。
よく見るとそれは人の頭だった。小さい子供だ。何かを探しているのか、小さな頭をキョロキョロと動かしながら草を両手で掻き分けている。
 そんな小さな頭を見ていたら弟を思い出した。
すっかり寒くなったこの季節、日が沈むのもかなり早い。そのうち辺りは暗くなるだろう。
そんな中、小さな子供が一人でこんなところにいるのは危ないのではないか。
探し物に夢中になって水辺まで行き、足を滑らせてしまったら…。
背筋が冷たくなるのを感じ、次の瞬間には小さな頭に向かって足が動いていた。


「そんなところで何してるの?探し物?」

 突然掛けられた声にビクリとした男の子は、恐る恐るといった感じにそうっとこちらを向いた。
 ぱちくりとこちらを見上げる目は大きな垂れ目で、髪の毛は短くおでこが出ているのが可愛い。
目線を周囲に巡らせ、自分に向けられた言葉だというのを確認すると眉間にシワを寄せてこちらを睨んできた。
どうやら見知らぬ人間を警戒しているらしいが、その表情が外見に不釣り合いで思わず笑ってしまう。

「どうしたの?何か失くしたの?」

 もう一度、優しい口調で問う。
すると少し警戒心を解いたのか、困ったような、不機嫌なような顔で口を開いてくれた。

「おれのボール、なくなっちゃったから、捜してる」
「ボール?どんなやつ?」

さらに問うと、小さな彼はパッと瞳を輝かせて、大きな声で答えてくれた。

「野球のボール!」

 この子は野球がすごく好きなんだな、と思うような表情だった。
先ほどのしかめっ面を思い出し、あまりの変わり様にまた笑いそうになったがなんとか堪える。

「野球好きなの?」
「うん!おれ、野球、大好きだよ。だって面白いんだもん」

 興奮したように頬を赤く染めて、身振り手振りで話す彼に思わず笑みがこぼれた。
うちの弟などは人見知りで人の目を見て話すのが苦手なのであるが、この子は目を逸らすことなく懸命に野球への想いを伝えようとしてくれている。


「俺も野球、好きなんだ。…だから君のボール捜すの手伝ってもいいかな?」

小さな彼は瞳を輝かせて、頷いてくれた。




「あ…っ!あった!見付けたよボール!!」

 気付けば辺りは真っ暗で、大きな川は底知れない黒い塊となって静かに流れていた。
夢中になってボールを捜していた小さな彼は、大きな声にピンとこちらを振り向く。
手に握られたボールを見るなり破顔して、パタパタとこちらへ駆けて来た。
ボールを渡してやると、土に汚れた小さな両手で、ありふれた軟式用ボールをまるで宝物を扱うように包み込んだ。
感触を確かめるように手のひらの中でくるくると回す。

「見つかってよかったね」

 頭を撫でると、ボールから目を離してこちらを見上げる。にっこりと笑った顔につられて笑った。

「いっしょに捜してくれて、ありがとう」

 彼は頭に乗せられた手を掴んで、見つかったボールを握らせた。

「これ、おにいちゃんにあげる。野球、好きなんでしょ?」

 握らされたボールの上から彼の小さな手が重ねられる。子供体温。あたたかかった。

「今度いっしょにキャッチボールしような!」
「…あっ、ちょっと!」

 小さな彼は振り向かず、走って行ってしまった。
こんな暗い中一人で帰すのは危ないとか、家まで送っていってあげなくちゃとか、そういえば名前も聞いてないとか、いろいろなことが頭の中でぐるぐると渦巻いている間に彼は夜の闇にまぎれてしまった。
一緒に過ごした時間がまるで幻であったかのようにあっけなく去った。
手のひらに残ったボールだけが、彼の体温を残しているのか、あたたかかった。



******



 西浦高校の入試合格発表の日、初めて阿部とたくさん話をした。
違うチームとはいえシニアリーグに所属している者同士、面識はあったがクラスも違うので挨拶程度しか交わしたことがなかった。


「栄口も野球部入んだろ?」

 まるでそれが当たり前のことのように阿部はそう言った。
阿部の大きな垂れ目は、少しの揺らぎもなくこちらを見ていた。
しかし意見を強いるような雰囲気ではなく、あくまで何気ない。ごく自然な言葉と視線だった。

「阿部は、人の目を見て話すタイプなんだね」
「は?」

 答えになっていない返答に、阿部は眉間にシワを寄せた。
(あ、この表情どっかで見たことあるなぁ。)

「阿部はほんとに野球好きなんだね」

 阿部は一瞬きょとんとした後、ニッと笑った。


「おお。だって、おもしれーもんな」



(あ、あ、やっぱり。)





「うん、俺も、大好きだよ」



 あの汚れた軟式用ボールは、今でもずっとあたたかい。











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なんかよくわからん栄口くんの不思議体験でした
小さい彼は5歳くらい?


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