酒と谷間で天下を獲れ
木製の重たいドアを開けて、錆びた階段を下りるとヴィンテージなガラス窓の付いたドアがある。その奥にスナック木の葉はあった。安っぽいネオン看板と塗装の剥げた外観からは想像がつかないほどアンティークで瀟洒な店内には、センスの良いジャズレコードが流れている。
壁には店内の雰囲気と調和のとれたフライヤーが貼り出されいる。いつだったか名前が、「ママが定期的にジャズライブを開催しているの。」と言っていたな、とぼんやり思った。
「あ!カカシさん。」
バーカウンターで忙しなく働いていた名前がこちらに気づく。愛想の良い笑みを浮かべて小走りに近付いてきた名前は、はね上がったアイラインが印象的な濃いメイクをしている。家では真っ直ぐおろされている髪もたおやかな弧を描いて、かき上げられた前髪が異国情緒な雰囲気を醸している。薄暗い照明が一層、名前を妖艶に映して、なんだか落ち着かない。
「自来也さまお久しぶりです〜!みんな、自来也さまが来てくれるの、楽しみにしてたんですよ?」
「おお〜名前!しばらく見ないあいだにべっぴんになっとるのォ!!」
「もう、自来也さまってば上手に言うんだから〜!今日はうんとサービスしなくちゃ。」
名前は気分良さげに口の端をつり上げて「もちろんカカシさんもね。」とチラリと横目に視線を投げて言った。
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「自来也さまはキープボトル、ロックで、カカシさんはビールでいいよね?」
カウンター越しに名前が、にこっと笑う。名前の洞察力と記憶力には目を見張るものがある。普段の生活でもそれはひしひしと感じていたが、頻繁に店に来ているわけではないのに聞かずともオーダーを把握していることには舌を巻いてしまう。
「相変わらず、よく見てるね。」
「もちろん。大切なお客さまだもん。」
いつもは「仕事だから。」と答えるくせに、今日は最もらしい理由を述べている。思わず片眉を上げて名前を見た。すると名前も同じような表情でオレを見て、それから不敵に微笑んだ。かと思うと、バーカウンターの奥のボックスシートの客に呼ばれて「はーい!」と愛想良く返事をした。黒いレース調の上品なドレスの裾を翻して、呼ばれた席へと行ってしまった。その後ろ姿に思わずふう、と溜め息が漏れる。
家での名前は、薄化粧で料理上手でちょっぴり泣き虫で、それから負けず嫌い。
そういうお店では見せない部分を自分だけが知っていることに悦に入ったような気になっていた。けれど、お店での妖姿媚態な名前に何故だか心の奥がざわめいた。客商売である以上、誰にでも愛想良く振る舞うのは当然のことなのに、名前の笑顔が自分以外の不特定多数へ向けられることが妙に腹立たしかった。
「ごめんなさいねぇ。自来也さまもカカシさんも久しぶりに来て下さったのに、名前ったらふたりのことをそっちのけで……」
ドリンクをカウンターに出しながら、スナック木の葉のママは呆れたように笑って、名前の居る奥のボックスシートをチラリと見た。
「ありゃあ、国境の大名の息子か……」
「そ。流石は自来也さま、よくご存知ね。羽振りの良いお客さんなんだけど〜、すっかり名前に入れ込んじゃって……困ったものよねぇ。」
ママはオレを見てにっこりと笑って続けた。「ほら、あの子ストーカーに遭ったばかりじゃない?」自来也さままで意味ありげにオレを見て「噂じゃ、とんだ放蕩息子らしいからのォ。」とグラスの酒を煽っている。
「はあ……」
ふたりに含みのある顔をされて居心地が悪くなった。返す言葉が見つからず、困ったように息をついて苦笑いすることしかできない。
ジョッキに口をつけながらカウンターの奥に目をやる。とんだ放蕩息子とやらは、ぴったりと名前の隣にくっついて座っている。おまけに手は名前の剥き出しの膝に置かれていた。それなのに名前ときたら、嫌な顔をするどころか、にこにこ笑って相槌を打っている。
「好きなんだろォ?名前のこと。」
「え、いや…そういうわけでは……」
自来也さまの突拍子もない言葉に、はっとする。慌てて自来也さまの方を見ると、ニヤニヤと愉しげな顔をしている。もう溜め息しかでない。
「そーかのォ、ありゃあ…どう見てもお前が教えた技だろ?」
いつの間にか名前の腰に回された、放蕩息子の手が名前のお尻に滑り込みそうになっていた。名前はその手を淀みのない動きでつまみ上げて、にっこり笑った。その動きには確かに覚えがある。名前に護身術を教えたときのことだ。
「……深い意味はないですよ。」
「カカシよ…素直になった方がいいぞ。あんな器量良し逃してから後悔しても遅いぞ。まぁ、ワシは、も〜ちっとボインが好きだからのォ!名前はち〜っと惜しいのォ…」
そう言ってチラリと名前の胸元に視線を投げた自来也さまに、また溜め息がでた。
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結局、自来也さまに付き合って閉店間際まで飲んでしまった。自来也さまときたらお店の女の子たちを侍らせて夜の歓楽街に消えてしまったし。全く忍の三禁はどこへやら……
「困ります、離してください!」
「今夜はダメなの?名前ちゃん。」
「今夜だけじゃなくて、ずっとダメ!」
「ふぅん、男がいるってこと……。でも、そういう相手は一人に絞ることないだろ?」
「嫌、やめて!」
不意に安っぽいメロドラマのような台詞が聞こえてきた。振り返ってみると名前があの大名の放蕩息子に腕を掴まれていた。迫られているらしい、と気が付いたとたんに腹の底からむかむかしたものが湧き上がってくる。
「カカシさん…!?」
名前が目を見開いて驚いた顔している。オレはそんな彼女の様子などおかまいなしに、名前の腕を引っ張った。
「帰るよ名前。」
オレは苛々しながら言った。困惑したような顔で後ろを気にする名前を引きずるように、強引に手を引く。
頻りに名前が「カカシさん、痛いって!」と泣きそうな声で言うものだから、はっとして名前手を握りしめていた力を緩めた。
それからしばらく、お互いに黙ったまま歩いた。月明りに照された暗い夜道を歩く自分たちの足音しか聞こえない。
「……ねえ、カカシさん。あたしたちいつまで手繋いでるの?」
最初に沈黙を破ったのは名前だった。その声はほんの少し怒気を含んでいるような気がした。
あんな軽薄な男に言い寄られて、怒りたいのはこっちなのに、と勝手に腹をたてている大人げない自分にも呆れる。
「ん、家まで?お前は隙だらけみたいだから。」
「隙だらけって……そんなことなっ…!?」
覆面を引き下ろしてキスできそうな距離まで顔を近づけた。不意を突かれた名前は目を真ん丸にして真っ赤になっている。動揺で揺らめく瞳が潤んでいて本当にキスしてしまいたい。
「ほら、隙だらけ。」
「………そーゆうの、好きな人としかしたくない。」
顔を離すと唇を尖らせた名前が拗ねたように「カカシさん酔ってるでしょ?」と言った。
「じゃ、お前はオレのこと嫌いなわけだ。」
今度はオレがむっとする番だった。さっきまで真っ赤な顔をしていたくせに。
「カカシさんは嫌いじゃないけど、酔っ払いは嫌いなの。」
名前はきっぱりとした口調で言った。つまり、オレは嫌われてはいないらしい。