狂おしき愛をその唇に[1]ふと、腕の中から温もりが消えていく感覚に、意識が浮上した。
はっとして目を見開けば、視界に映った見慣れぬ天井。
そうだ。
昨夜はナマエの家でーーーーー。
反射的に隣を見た。
だがそこに、あるはずの姿はなかった。
「ナマエ……?」
身体を起こし、サイドテーブルから昨夜外した腕時計を取り上げる。
常夜灯の明かりを頼りに文字盤を確認すれば、もう間もなく5時になろうかという時刻だった。
休日の朝としては、随分早い。
だが眠気よりも彼女が隣にいないという不安感が勝り、俺は布団を捲り上げてベッドから足を下ろした。
素肌にワイシャツを引っ掛け、脱ぎ捨てられていたスラックスを拾い上げて足を通す。
ワイシャツのボタンを順に留めながら、寝室を出てリビングへと向かった。
昨夜。
俺は彼女に、己の想いを伝えた。
互いの認識に齟齬があったと判明したものの、改めて意思を確認し合い、俺たちは恋人という仲になった。
その後は、無我夢中だった。
情けないと自覚しつつも我慢など出来ず、一心に彼女を求めた。
彼女もまた、そのような俺の熱情に応えてくれた。
堪らなく、幸福だった。
長い間恋い焦がれ、想い続けてきた人。
決して己のものには出来ぬのだと心の何処かで諦観し、それでも最後まで縋っていたかった。
無様であろうと、無駄な足掻きであろうと。
万に一つの可能性に賭けるかのような想いで、彼女を追い続けた。
その彼女が、俺を振り返ってくれた。
俺の想いに、応えてくれた。
まるで、夢を見ているような心地だった。
現実の出来事なのだと、彼女は己のものになったのだと。
確かめたくて、何度もその身体を掻き抱いた。
深く繋がり、想いの丈を吐き出した。
幸福に浸り、歓喜に打ち震えた。
だがそれでも、無意識に心の何処かで恐れていたのだと、今になって悟る。
恐れていたのだ。
これが、最初で最後なのではないか、と。
これは、俺に与えられた一晩の幸福な夢なのではないか、と。
リビングのドアを開ける。
電気はついていなかった。
代わりに、半開きになったカーテンの向こうにある硝子の掃き出し窓から、日の出前の薄明かりがぼんやりと見えた。
ベランダに目を凝らすと、そこにあった彼女の後ろ姿。
唇から、安堵の吐息が漏れた。
足を進めると、彼女が煙草を吸っていることに気付いた。
どうやら家の中では吸わないタイプのようだ。
そういえば、リビングにも寝室にも灰皿がなかったと、今更のように思い出す。
彼女はブラウスとパンツを身に纏い、外の景色を眺めていた。
ソファの背凭れから昨夜己が脱いだスーツのジャケットを取り上げ、硝子窓を控えめにノックする。
音に気付いた彼女が振り返り、俺の姿を認めて目を細めた。
その表情に促されて窓をスライドさせれば、明け方の肌寒い空気が室内に流れ込んでくる。
「ごめん、起こした?」
彼女の声が少し掠れているのは寝起きであるが故なのか、それとも昨夜の俺の所為か。
「いや、大丈夫だ」
どちらにせよ、新たに見つけた無防備な姿に、一段と愛おしさが募る。
「そのまま出て大丈夫だよ」
その言葉に足下を見れば、ベランダにはウッドパネルが敷き詰められ、素足で出られるようになっていた。
彼女も裸足のままだ。
同じようにそのままベランダに足を踏み入れ、窓を閉める。
そして再び外に視線を戻した彼女の背後から近寄り、その華奢な肩にジャケットを着せかけた。
煙草を片手に、彼女が驚いたように俺を見る。
「そのままでは冷える」
「…ありがとう、」
そう言えば、彼女は再び目を細めて笑った。
その表情に騒ぐ鼓動を抑え込み、黙って彼女の隣に並ぶ。
間もなく日が昇るのだろう、東の空が白み始めていた。
濃紺の空に淡い光が混じり、闇が西へと追いやられていく。
見下ろす地上はまだ朝霧に霞み、人の姿はなかった。
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