この熱が届く頃に[1]R-18ガラじゃねえのはてめえでも分かってた。
だが、どうしようもなかった。
二ヶ月前、社内で恐ろしく面倒なトラブルが起きやがった。
その対応に追われ、休日は全て丸潰れ、平日も朝から夜中まで会社に缶詰め。
酷い時にゃ、そのままオフィスのデスクで夜明かしなんてこともあった。
事態がようやく収束を迎え、帰路につく午後9時30分。
外は不快な湿度を孕み、今にも雨が降り出しそうだった。
駅までの道のりを、疲労困憊の身体に鞭打って歩いた。
ようやく終わった。
明日から、無理矢理二連休をもぎ取った。
二ヶ月間休みなしで働き詰めたことを思えば、このくらいは許されるはずだ。
駅に着き、丁度ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
満員とまではいかねえが、座れるほどでもねえ。
比較的開閉の少ない方のドア脇に、背中を押し付けた。
やたらと重く感じるビジネスバッグの中から、ここしばらくまともにチェックしていなかった私用のスマホを引っ張り出す。
側面の電源キーを押して、表示されたロック画面の写真に息が詰まった。
「ナマエ…」
俺は、いつからあいつに会ってねえんだ。
いつから連絡を取ってねえんだ。
二ヶ月前、トラブルがあったことはメールで伝えた。
そのせいでしばらく休みが取れねえことも、その時に言っておいた。
その後、ずっと連絡を取ってねえ。
「くそ、」
理解してくれている、とは思う。
仕事が忙しいのだと、気を遣って。
あいつからも連絡がなかったのは、きっとそういうことだろう。
そう、分かっちゃいるが。
見慣れたはずの笑顔が、あまりに懐かしく思えて。
感じていたはずの疲労感が、全てあいつに会いたいという胸を焦がすような切望にすり変わった。
電車が駅のホームで停車する。
ここで降りれば、家に帰れる。
だが、あと三駅分乗っていれば、あいつの家だ。
今から、行っていいか。
俺は電車を降りず、代わりに急いで打ったメールを送信した。
ウィークデイのど真ん中、あいつは明日も仕事だろう。
普段は週末にしか会っていなかったから、迷惑かもしれねえ。
そもそも、二ヶ月も連絡を怠っておいて、急に何をと思われるかもしれねえ。
だが、一目だけでもいい。
あいつに会いたかった。
しばらくすると、手の中でスマホが震え、メールの着信を告げる。
祈るような思いでそれを確認すれば、表示されたたったの一行。
うん、待ってるね。
全角九マスのその文章に、心底安堵した。
あいつもきっと、急いで打ったのだろう。
いつもなら、俺を気遣う言葉や食事はどうするかとか、そんなメッセージを添えてくるのに。
ただ、会いたいのだと。
そう伝えてきたメールに、愛おしさと申し訳なさとが募った。
電車を降り、人混みを掻き分けて改札を抜ける。
駅を出ると、雨が降り始めていた。
生憎折り畳み傘の用意はねえが、わざわざコンビニで買うその時間すら惜しい。
電車に乗る時に感じていたはずの疲労感など忘れ、雨の中をとにかく走った。
一刻も早く、抱きしめたかった。
荒い呼吸を整えることもせず、合鍵を回してドアを開ける。
玄関に身体を滑り込ませたと同時、リビングのドアが開いた。
そこに、ナマエが立っていた。
嬉しさと戸惑いとを綯い交ぜにしたような、複雑な表情。
だがそれも、一瞬だった。
「トシさんっ、なんでそんな濡れて…っ」
慌てた様子で、ナマエが顔色を変える。
玄関とリビングとの間にあるラバトリーの引き戸を開き、中からタオルを取り出して来た。
「そんなんじゃ風邪引いちゃう、」
パタパタとスリッパの音を鳴らし、ナマエがタオルを片手に俺に近づく。
差し出された白いタオル。
心配げに覗き込んでくる顔。
もう、何も考えられなかった。
「ひゃ…っ、」
タオルを差し出す手首を掴み、引き寄せる。
俺の突然の行動にか、それとも濡れたスーツの感触にか、ナマエが微かに身体を強張らせた。
だがすぐに余分な力を抜き、俺の胸元に頬を寄せてきた。
「すまねえ…っ」
お前まで、濡らしちまって。
こんなに長い間、放ったらかしちまって。
腕の中で、ナマエが首を横に振る。
こいつは、そういう女だ。
我儘なんて言わねえ、俺を責めたりもしねえ。
きっとこの二ヶ月間の事情を俺が説明しなかったとしても、こいつは絶対に俺を怒ったりしねえんだ。
本当なら、あのトラブルさえなけりゃ、今頃俺はナマエにプロポーズをしていたはずだった。
俺の仕事が忙しく、いつも週末にしか会えねえ。
そんな状況を打開すべく、籍を入れて早く一緒に暮らしたかった。
もう寂しい思いはさせたくねえ。
何よりも、俺の方が限界だ。
そう思って、贈る指輪を探し始めていたところで、あのトラブルだ。
結局俺は、未だに目的の物を買えていねえまま。
だが、これからは仕事もちったあ落ち着くだろう。
時間を見つけて、指輪探しを再開しよう。
そしてこいつに贈るのだ。
結婚してくれ、はその時までとっておく。
今伝えたい想いは、たった一つだった。
「やっと会えた…!」
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