baby and sweet [1]
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時計の針が定時を刻むと同時にビジネスバッグを掴み、オフィスを後にした。
足早に廊下を進み、エレベーターを利用して1階まで降りる。
エントランスホールの端、出入り口となる自動ドアに接する壁際に立ち位置を定めた。
ちらほらと、退社する社員がエレベーターから吐き出され、ホールを横切って自動ドアの向こうに消えて行く。
その流れに、特に女性社員に焦点を当てて目を凝らした。

俺が待っているのは、彼女だ。
それも、待ち合わせという名目はない。
これは、待ち伏せだ。

先日入手したメールアドレスに連絡を入れるという方法を、考えなかったわけではない。
だが、より確実な手段を選んだ。
彼女を決して逃さないための布陣だ。

視線は人の波を追いながらも、脳裏には昼間の出来事が蘇る。
後輩である雪村に呼び止められ、不慮の事故とはいえ抱き止めてしまった。
剰え、明らかな好意を孕んだ食事の誘いを受けるところまで彼女に目撃された。
その姿は、彼女の目に如何様に映ったのか。
焦るあまりに何も言えず立ち尽くした俺の前で、彼女は予想外にも足を止めた。
そして雪村に向け、俺のことを私の男、と称したのだ。
あの瞬間、まさに天にも昇る心地だった。
彼女の口から零れ落ちたのは、まるで独占欲のような台詞。
俺のことを好いてくれているのか、と。
叶わぬと思っていた恋慕が報われた気がした。
しかし、それは刹那の出来事に過ぎなかった。
雪村が立ち去り、二人きりになった途端。
彼女は薄く微笑み、一言謝罪の言葉を口にして俺の前から立ち去った。
それが一体どういう意味だったのか、俺には何一つ理解出来なかった。

彼女の言動の意味を確かめるべく、俺は今ここで彼女を待ち伏せている。

ロビーの片隅に立ち尽くして人の波に目を凝らしている俺は、他者から見ればさぞ不審な男だろう。
誰かに見咎められた場合、何と言い訳すれば良いのか。
だが、金曜日の終業後という時間が幸いした。
ある者は疲労を隠しもせずに俯き気味に歩き去り、ある者は数人のグループに纏まって今から酒を飲む店を検討し合っている。
誰も彼もが自らのことで手一杯な様子で、立ち尽くす俺を気に留める者はいなかった。

俺がロビーに立ってから、1時間半程が経過した頃。
俺の目はようやく、待ち望んでいた人の姿を捉えた。
エレベーターホールから出てきた数人の中に、彼女の姿があった。
今にして、目を凝らす必要などなかったのだと悟る。
バッグを肩に掛け足早にロビーを横切る彼女の姿だけが、周囲とは切り離されたかのように俺の目に眩しく映る。
彼女だけが、特別だった。
こんなにも好きなのかと、抱く想いの強さを突き付けられる。
それは甘く苦い現実だった。

自動ドアへと一直線に向かう彼女の進路を遮るべく、足を進める。
真っ直ぐに前を向いていた彼女は、すぐに俺の存在に気が付いた。

「斎藤君?」

驚いているのが、口調から伝わってくる。
社会人の挨拶の定石として、俺はお疲れ様ですと小さく頭を下げた。

「どうしたの、」

俺が現れた方向や雰囲気から、この状況が偶然ではないことを察したのだろう。
訝しげに首を傾げる。

「…話が、ある」

俺の端的な言葉に、彼女が眉を顰めたのが分かった。

「今日じゃなきゃ駄目?」
「…何か、予定が?」

奇しくも金曜日の夜。
何の約束も交わしてはしなかったが、いつものように飲みに行くことにすんなりと同意してもらえると思っていた。
しかし彼女は、予想外にも躊躇う素振りを見せる。
ざわり、と胸が騒いだ。

「仕事、持ち帰りなの。だから今日は早く帰りたいんだけど」

それが、真実なのか否か。
確かめる術は俺にはない。
だが仕事という単語を持ち出された以上、俺にはこれ以上どうすることも出来なかった。

「そう、か」

今日、どうしても聞いておきたかった。
雪村に向けた発言と、その後の謝罪の意味を。
しかし今夜は、この憂悶を抱えたまま帰宅するしかないようだ。
何も手に付かない週末になることは言うまでもないだろう。

「…ならば、」
「うち、来る?」

またの機会に、と言いかけた俺の声を遮った彼女の提案に、俺は息を飲んだ。

「あんたの、家、か?」

唖然と聞き返した俺に、彼女は何の衒いもない仕草で頷くと。

「急ぎだけどね、作業自体はすぐに終わるから。少し待っててくれるなら、」

そう言って、俺の顔を覗き込んだ。

あんたはそうやって、付き合ってもいない男を簡単に家に上げるのか。
この時間帯に女が一人暮らしの自宅に男を上げるなど、無警戒にも程がある。
それは、俺が特別なのか。
それとも、誰に対してもそうなのか。

言いたいこと、聞きたいことは山ほどあった。
だがそれよりも先に、俺はぎこちなく頷いていた。




「ちょっと待っててね」

ソファに座るよう促され、差し出されたのはコーヒーの入ったマグカップ。

「あ、ブラックでよかった?砂糖とミルクもあるけど」
「このままで構わぬ」

肌寒い夜風に冷えた手に、温もりが染み渡った。

「すぐに終わらせるから、少し待ってて」

そう言って、彼女はフローリングの上に敷かれたラグの上に直接腰を下ろした。
俺の腰掛けるソファの前に鎮座するローテーブルにノートパソコンを開き、タッチパッドの上を華奢な指先が走る。
真剣に画面を見つめる横顔を、俺は黙って見つめた。


彼女に促されて会社を後にし、同じ電車に乗り込んだ。
その最中、彼女は持ち帰る仕事の内容を簡単に説明してくれた。
自宅にあるパソコンの中に保存されている資料を、メールに添付して部下に送らなければならないのだという。
帰宅してすぐに送ると約束した故に急いでいたのだと知った。

彼女の自宅の最寄り駅で電車を降り、肌寒い夜道を言葉少なに肩を並べて歩いた。
結果として、俺の今夜話しをしたいという要望は叶えられる方向に進んでいたが、そのシチュエーションについては全くの想定外だった。
まさか、彼女の家に上がることになるなど、露程も予想してはいなかった。
いつものバーで酒を飲みながら話そうと思っていた俺の目論見は見事に外れ、身体がぎこちなく強張った。

それでも、一歩彼女の家に踏み込むと、高まる緊張の片隅で微かな喜びも感じていた。
彼女が気兼ねなく家に上げる対象をどのように選定しているのかは分からぬままだが、それでも遠ざけたい相手を招いたりはせぬだろう。
少なくとも俺は自宅に足を踏み込むことを許されたのだと思えば、幾分か救われる気がした。




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