指の隙間から零れ落ちていく[1]
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その瞬間、あまりのタイミングの悪さを呪った。


「斎藤さん!」

食堂で昼食を終え、オフィスに戻るところだった。
廊下の途中、背後から高い声で呼ばれ振り返ると、同じ部署の後輩である雪村が追い掛けて来た。
何かあったのかと、雪村が追い付いて来るのを待つ。
小走りで近寄ってきた雪村が、俺の前で立ち止まろうとして。
何もない廊下に蹴躓き、バランスを崩してよろめいた。
俺の方へと倒れ込んできた身体を、条件反射で受け止める。

「す、すみませんっ」

俺の胸元に凭れ掛かるように縋りついた雪村が、上擦った声で謝罪した。
しかしその声は、俺の耳を右から左に通り過ぎていった。
息を飲む。
前方、廊下の曲がり角から姿を現した人の存在によって。

歩いてきたのは、ナマエさんだった。

彼女は俺と雪村の姿を認め、驚いたように一瞬だけ立ち止まり瞠目した。
やがて彼女は何事もなかったかのように再び歩き出す。
段々と縮まる距離に、俺は慌てて雪村の身体を引き離した。
身体中から嫌な汗が吹き出す。
視界の端、頬を染めた雪村が見上げてくるが、俺はそれどころではなかった。

何故、このような所を見られてしまったのか。
これが他の誰かならば、一向に構わなかった。
俺と雪村との間には何もないのだ、気にすることはない。
だが、選りに選って彼女に目撃されるとは。

「あの、斎藤さん、」

体勢を立て直した雪村が、改めて話し掛けてくる。
だが俺は、何の表情も浮かべずに歩いてくる彼女から視線を外せなかった。

「すみません、あの、今夜なんですけど、」

そこまできてようやく、俺は雪村に視線を移した。
てっきり仕事の話なのかと思えば、口から飛び出したのは今夜というフレーズ。
特別、部署の飲み会やその他予定はなかったはずだと訝しめば。

「お話しがあるので、一緒にお食事に行きませんか?」

続けられた言葉に、絶句した。
いくら色事に鈍いと揶揄される俺でも分かる、男女の間を匂わせる誘い文句。
雪村は気が動転しているのか何なのか、背後から近付いてくるヒールの音にも気付く様子なく俺を見つめてくる。
最悪のタイミングだった。

雪村のことは、申し訳ないがこの際後回しだ。
思いに応えられるはずもないので、丁重に断ればよい。
問題は彼女の方だ。
不可抗力とは言え、雪村を抱きとめてしまった。
そして、この告白紛いの状況まで見られている。
これを何と説明すればよいのか。
俺の方など見向きもせずに歩いてくる彼女に、何と言えばよいのだ。
誤解だと弁明すればよいのか。
そもそも彼女は、この状況に対し何かしらの所感を抱いてくれているのか。
彼女は恐らく、俺に対して執着心などない。
何と言い訳をしても、単なる独り善がりにしかならないのではないか。
恋人が出来たのならもう会わない、などと言われてしまえば、どうすればよいのか。

思考が空回りし、焦燥感に駆られる。
その間にも、俺たちと彼女との距離は着実に縮まっていく。
このまま彼女は何も言わず、俺の方を見ることもなく、横を通り過ぎて行ってしまうだろう、と。

そう、覚悟した刹那。

ヒールの音が、ぴたりと止まった。
俺の視線の先、雪村の背後に少し距離を取って、彼女が立ち止まる。
その唇が薄っすらと開くのを目にした俺は驚き、次の展開に固唾を飲んだ。



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