振り絞った勇気の報酬[2]左隣から漂う煙草の匂い。
ちらりと視線を向ければ、薄桃色の唇に白いフィルターが乗っている。
気紛れに俺に触れてくる、柔らかな唇。
その唇を、独り占めしたいのだ。
現時点で彼女に特定の恋人がいないことは、既に本人の口から確認済みである。
だが、俺と同じ立場の男が他にいないとも限らない。
つまり、仕事上がりに彼女と二人で飲みに行く男。
彼女の唇に、触れることが出来る男。
彼女が交際をしていない男とでも口づけを交わすことが出来るのは、己が身を以て知っている。
彼女に特定の恋人がいないからといって、他の誰とも口づけを交わしてはいない、ということにはならぬのだ。
そして俺はもう、そのような状況には耐えられそうもなかった。
最初は、彼女との接点が僅かでもあるだけで満足していた。
顔を合わせれば言葉を交わし、仕事上がりに飲みに行き、彼女の気紛れな口づけを受け止める。
それだけで、十分だと思っていた。
浮気相手だろうが、遊び相手だろうが一向に構わぬと、そう思ったいた。
しかし、欲が出た。
彼女が土方部長の恋人ではないと知った日、ならば俺がその肩書きを手に入れたいと望んだ。
いや、本当はずっと前から心の奥底でそれを望んでいたのかもしれぬ。
彼女の唯一に、なりたいと。
彼女に触れるのも、また彼女が触れる相手も。
その唇の熱を知るのも、抱擁を交わすのも。
全て、俺一人であってほしい、と。
彼女の恋人になりたいと、そう望むようになった。
今夜、その第一歩として。
まずは連絡先を聞こうと決めていた。
偶然顔を合わせなければ、約束も出来ない。
そのような不安定な状況から、脱したかった。
それなのに、いざ彼女を目の前にすると怖気付き、なかなか肝心の言葉を口に出せないでいる。
「そろそろ出ようか」
いつまで経っても踏ん切りがつかず、何度もチャンスを棒に振っては自己嫌悪に陥っていた俺の隣。
手首の腕時計で時間を確かめた彼女が、そう言ってグラスに残っていたウイスキーを飲み干した。
「あ…ああ、そうだな」
それに倣い、俺もグラスを最後まで傾ける。
結局連絡先のれの字も口に出せないまま、俺は彼女の後に続いてバーを出た。
秋口の冷たい風が、僅かに火照った身体を冷ましていく。
駅までの道のりを、言葉少なに肩を並べて歩いた。
「今日はありがとう」
お決まりの台詞で、彼女が俺に向き直る。
いつだって、それだけだった。
彼女は決して、また、を口にしない。
次回があるのかどうか、俺はいつだって分からぬまま。
毎回俺は、共に過ごせた時間の幸せを噛み締めると共に、これきりなのではないかという不安を抱えて彼女の背中を見送るのだ。
そのような状況はもう、終わりにしたい。
彼女との繋がりが、ほしい。
「ナマエさん、」
背を向け歩き出した彼女を、少し掠れた声で呼び止めた。
不思議そうに、彼女が振り返る。
俺は必死で、何度も脳内で復唱した台詞を引っ張り出した。
「俺と、その…連絡先を、あんたの、」
しかし実際の音になったのは、全く要領を得ない単語だけだった。
顔に熱が集まっていくのが分かる。
実のところ俺は、自ら人に連絡先を訊ねるのは初めてのことだった。
携帯端末に保存された連絡先はどれも、公私を問わず全て相手から交換を持ち掛けられたものだ。
あまりに支離滅裂な台詞に、補足を加えねばならないとは思っても、それ以上何を言えば良いのか分からず。
黙り込んだ俺と、彼女との間に落ちた沈黙。
居た堪れなくなり俯いて、何でもない、と全てを無に帰そうとしたその時。
「もしかして、今日ずっと上の空だったのはそれが理由?」
かつん、とヒールの音が近付いて。
顔を上げれば、肩に掛けたバッグの中からスマートフォンを取り出した彼女が。
可笑しそうに笑いながら、俺の目の前に立っていた。
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