[3]煌めきの序曲
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そんな穏やかな日々に終わりが訪れたのは、間もなく桜の木に蕾がつこうかとする頃のことだった。

ある日の夕刻、朝方から天霧様と共に出掛けていた千景様が、ひどく不機嫌な様子で屋敷に戻って来た。
以前から時折所用があると言って出掛けていく理由を、最初の頃は理解していなかったが、今は私も気付いている。
千景様は、町で里からの使者と落ち合い、書状のやりとりをしているのだ。
帰って来た千景様の様子に、私は事態を察した。


その晩、晩酌の席でついに千景様は重い口を開いた。

「生憎だが、いよいよ里に戻らなくてはならん」

本来ならば、私にとってもそれは先延ばしにしたい話のはずだった。
もちろん、千景様の統べる里が嫌なわけではない。
里に行き祝言を挙げるということにも異存はない。
だが、里に足を踏み入れ千景様の正式な妻となるということは、私にとって試練の時でもある。
千景様と天霧様以外誰も知り合いのいない土地で、その頭領の妻としての人生が始まるのだ。
私の存在は、どのように迎え入れられるのか。
怖くないと言えば、嘘になる。
でも千景様が、あまりにも嫌そうな声で言うものだから。
逆に私は、思わず少し笑ってしまった。

「何が可笑しい」

さらに寄せられた眉間の皺に、私は慌てて言葉を探す。

「いえ。それで、出立はいつになるのでしょうか?」
「明後日の朝に決まった」

唸るような口調には、千景様がこの屋敷での生活に終止符が打たれることを心底残念がっている様子が伺えた。
それはもちろん、里での頭領という重圧から一時的にでも少し解放され、自由気儘に過ごせる時間だったからなのかもしれないけれど。
こうして私と二人穏やかに過ごせる時間だったから、という理由も含まれている気がしてしまうのは、私の思い上がりだろうか。

「畏まりました」

そして出来ることならば私も、ずっとこうして千景様と二人、穏やかに暮らしたかった。
誰に憚ることもなく、互いの存在だけを見つめていられれば、と。
でもそれは望んではいけないことだ。
千景様は頭領で、里の鬼の生活を、未来を、一身に担っている。
そのような相手を、私が自らの勝手で独り占めしていいはずがない。
所謂一般的な夫婦のように、二人だけの都合で物事を決めることは出来ないのだ。

「少し、怖いですが……でも、楽しみです」

それが、変えようのない事実ならば。
前を、向こうと思う。
こうだったらいい、ああだったらいい、と願うことは簡単だ。
でも、それが決して叶わない願いならば。
いつまでも後ろを向いていないで、これから始まる日々を受け入れよう。
思えば千景様とのことだって、最初はあんなにも拒絶していたのに、いつの間にかとても大切なひとになっていた。
千景様もまた、理由はどうであれ私に対し穏やかに笑ってくれるようになった。
きっと、里での暮らしも初めはつらいかもしれない。
でもいつか、互いに打ち解ることが出来るかもしれない。

「楽しみ?」

だってそこは、千景様の統べる里なのだから。

「はい。千景様が生まれ育ったという場所を、私も見てみたいですから」

私の言葉を聞いて、千景様は鼻で笑った。
でも私は知っている。
それは決して馬鹿にしているわけではなく、むしろ少し喜んでいるのだと。

「そうだな……楽しみだな」

しみじみと呟かれた言葉に、千景様は何が楽しみなのかと問えば。

「ようやく祝言を挙げることが出来る」

返された答えを、少し意外に感じた。
そのような形式ばった場を面倒臭がりそうに見えるのに、と首を傾げれば、千景様は不意に紅い双眸を細めて。

「夜な夜な愛でてやろう、ナマエ」

愉悦の滲んだ声に、私は言葉を失くした。
それは、あれか。
祝言を挙げるまでは手は出さない、と言った夜伽のことか。
絶句した私を見て、千景様はくつくつと喉を震わせる。

「精々楽しみにしておけ」

いま盃を持つ長い指が、私に触れるのか。
濡れた唇を舐める舌が、私の肌を這うのか。
一瞬想像してしまっただけで、顔から火が出そうな心地になる。
そんな私の反応に、千景様はいよいよ愉しそうに笑みを深めた。

「俺も、楽しみはその時までとっておくとしよう」



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