愛をなぞる言葉[5]
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「あっ、斎藤君!」

あれから、一年以上の月日が流れた。

不運にも俺は、三年生に進級する際のクラス替えで彼女とクラスが離れてしまい、学校で顔を合わせる機会は格段に減った。
それでも一つだけ、あの頃と変わらぬ習慣がある。

「ノート、ありがとう」
「ああ、」

そう言って差し出された、英語のノート。
彼女は俺とクラスが離れてからも、ノートだけは俺に借りに来た。

「何か分からないところはあったか?」
「ううん、大丈夫だった。斎藤君のノートは分かりやすいから」
「そうか」

もう少し分かりづらくすれば、彼女は俺に質問をしてくれるだろうか。
それを口実に、二人きりの時間を作ることが出来るだろうか。
そんな不埒なことを考えた己を内心で叱咤しつつ、俺は受け取ったノートをスクールバッグに仕舞い込んだ。

ノートの受け渡し。
ほんの僅かな時間だが、俺には最も楽しみな時間に違いなかった。
例え彼女にとって、俺がただの友人でも。
たまたまノートが分かりやすいというだけで、俺から借りるのだとしても。
授業中にノートを取りきれなかった時、きっと彼女は俺のことを思い浮かべてくれる。
借りに行こう、と俺に会いに来てくれる。
それだけで、俺の無遅刻無欠席と完璧な解説付きの板書は意味を持つ。

「あの、それとね、」

いつもはノートを返し終えたらすぐに去って行く彼女が、珍しく俺の前に立ち止まったまま。
どこか言いづらそうに、俺の顔をちらりと盗み見た。

「その……っ、ごめんっ、やっぱり何でもない!」
「ミョウジ?」

何が言いたかったのか、彼女は慌てた様子で踵を返し駆けて行く。
その背に声を掛けたが、彼女は振り返らなかった。
廊下の角を曲がって消えた姿に、俺は漠然とした不安を覚えて立ち尽くす。
何か、彼女の気に障るような言動を取ってしまっただろうか。
慌てて己のエラーを探すがさっぱり思い当たらず、俺は小さな溜息を吐き出した。


土方先輩と別れてから、彼女は誰とも付き合わなかった。
誰かが彼女に告白をしたという噂は何度か聞いたが、彼女は誰にも頷かなかったそうだ。
それは、あの時の傷心がまだトラウマになっているのか。
それとも土方先輩のことをまだ好いているのか。
真相は分からなかった。
しかし卒業まで半年を切った今、俺に残されたチャンスはごく僅かだった。


俺と彼女の志望する大学が異なることは、既に知っている。
これは、俺が直接本人に聞いた話ではない。
頼みもしないのに総司が仕入れてきた情報だ。
ある日唐突に知らされたこの件に、俺は酷く落ち込んだのを良く覚えている。
もちろん、数多くある大学の中から偶然同じ学校を選ぶ確率が相当低いことなど分かっていた。
しかし改めて事実を突き付けられると、焦燥感に苛まれた。
あと半年。
半年の間に何らかの進展をさせないと、互いの連絡先すら知らない俺たちは二度と会えなくなってしまうかもしれぬ。

しかし女子と交際をしたことなどない俺は、いかにして彼女との距離を縮めればよいものか、見当もつかなかった。
クラスが違う故に、なかなか会うことも叶わぬ。
廊下で見掛けたとて、一人を好む俺とは異なり友人の多い彼女はいつも誰かしらと共にいて、話しかけることも出来なかった。


やはり、俺に与えられた唯一のチャンスは、このノートだ。

チョークで板書された文字を写し取りながら、俺は考える。
ノートを受け渡す時間。
それだけが、俺に与えられた彼女と二人きりで話すことの出来る時間だった。

「このように、2つの確率変数の分布を同時に考えたものを同時確率分布と言い…」

教壇に立つ教師の説明をぼんやりと聞きつつ、俺は隣のクラスで同じように授業を受けているであろう彼女のことを想った。
時折聞こえてくる声を聞く限り、彼女のクラスは今世界史の授業中のようだ。
彼女は歴史は得意なのか、俺にノートを借りに来たことがなかった。
彼女が良く借りるのは英語と化学、そしてこの数学だ。
だから俺は、これらの3教科については特に丁寧にノートを取るようにしていた。

確率分布の表となる線を定規を使って引きながら、彼女の笑顔を思い浮かべる。
斎藤君、とそう呼ばれる度に、鼓動が跳ねた。
その後に続く言葉が、ノートを貸してほしい、という用件のみだと分かっていても期待した。
振り向いて、見つけた笑顔にいつも胸を締め付けられた。
狂おしいほどに、


あんたが、好きだ。


無意識に動いたシャーペン。
ノートの片隅に薄く記した、秘めたる想い。
文字にして目にした途端に、顔に熱が集まるのが分かった。
早く消さなければと、慌てて消しゴムを手にした途端。

「一君」

背後から掛けられた声に、俺は咄嗟にノートを閉じた。
いつの間に授業が終わったのか、総司が近付いてくる気配。
平静を装って振り返った。

「なんだ、」
「……どうかした?」
「何の話だ」
「…ううん、何でもない。それよりね、」

勘の鋭い総司の目を何とか誤魔化せたことに安堵しつつ、俺は閉じたノートを机に仕舞い込んだ。



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