愛をなぞる言葉[4]教室の床に膝をついて蹲り、彼女は泣いた。
いつも明るく笑っている彼女が、泣いている姿を見たのは初めてだった。
そんな彼女の前に、黙ってしゃがみ込む。
気配に気付いた彼女がぱっと顔を上げた。
その表情が、期待から失望に、そして戸惑いへと変化する様を、俺は奥歯を噛み締めて見ていた。
彼女が何を望んでいたのかは、一目で分かった。
その彼女の望みは、もうすでに廊下を歩き去ってしまっている。
そして俺では、その代わりになどなれはしないのだ。
ポケットから抜いたハンカチを、彼女に差し出した。
彼女は戸惑いつつもそれを受け取ってくれたが、使う素振りはなかった。
ただハンカチを握り締めて、俺を見つめてくる。
頬を幾筋も伝う涙に、胸が締め付けられた。
「すまぬ、聞くつもりはなかったのだが、」
その言葉で、彼女は全てを察したようだった。
「あ、はは。やだな、恥ずかしい」
唇が不自然な弧を描き、そこから乾いた笑いが漏れる。
「なんかもう格好悪いよね、ごめんね」
そう言って、逃げ出すように立ち上がろうとした彼女を。
まるで悲鳴を上げるみたいに、笑い声を上げる彼女を。
俺は咄嗟に抱きしめていた。
「さ…っ、斎藤君?!」
腕の中で、驚いたように彼女が身を捩る。
だが俺は、その抵抗ごと彼女を抱きしめた。
「泣くといい、」
「………え?」
「無理をせずに、泣くといい。そんな顔で、笑わずともよい」
付け込むつもりなど毛頭なかった。
ただ、一人で泣く彼女を放ってはおけなかった。
必死で作り笑いを浮かべる彼女を、見ていられなかった。
彼女は俺の腕の中で身体を震わせ、声を上げて泣いた。
土方先輩を想って流された涙が、俺のワイシャツの肩口をぐっしょりと濡らした。
俺はそんな彼女の背中を、一定の間隔でずっと撫で続けていた。
彼女が泣き止むまで、ずっと。
「本当はね、気付いてたの」
夕焼けの中、彼女と二人並んで校門をくぐり抜けた。
私情で部活を休んだのは初めてだった。
「付き合い始めた頃にね、私だけじゃなさそうだなって」
でも気付かない振りをしていたのだと、彼女は薄く笑った。
それは先程までよりも自然な表情ではあったが、やはり本心からは程遠い笑みだった。
俺は何も言わず、彼女の話を黙って聞いていた。
それしか出来なかった。
口下手な俺は女子の上手な慰め方など知らぬし、色恋にも疎い故にまともなアドバイスなど出来るはずもない。
ただ、時折相槌を打つことしか出来ぬ己が酷く不甲斐なかった。
彼女とは自宅の方向が違う故に、駅で別れた。
別れ際、改札口の前で彼女は俺に向き直った。
「今日はごめんね、斎藤君」
「…あんたが謝ることは何もないと思うが、」
「でもほら、みっともないとこ見せちゃった」
そう言って申し訳なさそうに視線を落とした彼女に、抑え込んでいた憤りが再び頭を擡げた。
やはりあの時一発殴っておけば良かったと、そんな理性的とは言い難い思いが駆け巡る。
「みっともなくなどない。あんたは…充分に良く頑張った」
「…そう、かな」
「ああ、俺はそう思う」
「そっか…うん、そうだね、」
両手で持ったスクールバッグを身体の前で揺らしながら、彼女が少し寂しげに微笑む。
その表情に本当の笑顔を取り戻してやれないことが、酷くもどかしかった。
俺では駄目なのだと、そう言われている気がした。
それでも。
「ありがとう。斎藤君がいてくれて、よかった」
それでも、そう言ってくれた彼女にとって。
俺の存在が少しでも救いになったのならば、それで良かったと思えた。
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