愛をなぞる言葉[3]馬鹿なことを、と思った総司のその言葉が正しかったと証明されたのは、それから一ヶ月後のことだった。
風紀委員の会議を終えて、部活に行く前に一度教室に寄ろうと廊下を歩いていた。
不意に、聞き慣れた声が耳に届き、俺は思わず足を止めた。
それは彼女の声だった。
「やっぱり、そういうことなんですね」
耳を欹てて拾い上げた声は、俺の勘違いでなければ少し震えていた。
俺は咄嗟に近くの教室を覗き込む。
そこには案の定彼女の姿と、そしてその向かい、土方先輩が立っていた。
「あー…まあ、そうだな。悪ぃ」
「…いいんです。何となく、分かってましたから」
そう答えた彼女の表情に、俺は息を呑んだ。
それは、俺の知っている彼女ではなかった。
彼女が土方先輩と話す時は、もっと幸せそうだった。
もっと笑っていた。
それなのに今の彼女は、まるで泣き出す一歩手前のような顔で俯いた。
その瞬間、俺はこの状況が何を意味するのかを悟った。
「もう、いいです。…私、楽しかったです」
しばらく俯いていた彼女が、やがて顔を上げて。
明らかに無理矢理と分かる、引きつった笑みを浮かべた。
「とても、楽しかった。だから、ありがとうございました」
そう言って、真っ直ぐに土方先輩を見上げる。
その横顔に、胸が締め付けられる思いがした。
「ナマエ、」
何かを言いかけた土方先輩を遮るように、彼女は首を振って。
必死に、明るい声を出そうとしていた。
「もう、行って下さい。私は大丈夫ですから、ね?」
口角を上げて、首を傾げて。
まるで何事もなかったかのような素振りで、彼女が笑う。
だがその声は確かに震え、その目からは今にも涙が零れ落ちそうだった。
「…すまねえ、」
そんな彼女をしばらく見つめていた土方先輩は、やがて喉の奥から絞り出したような声でそう言って、彼女に背を向ける。
そのまま、後方のドアから廊下に出てきた。
土方先輩が、教室の前方のドア脇に佇んでいた俺の姿を見つけて急に立ち止まる。
斎藤、と。
土方先輩の唇が、そう動いた気がした。
俺は黙したまま、土方先輩を見据えた。
尊敬していた。
心から慕っていた。
彼女の恋人になったと知ってもなお、その気持ちは薄らがなかった。
もちろん、羨んだことは何度もある。
俺がその立場に立ちたかったと思った。
だがそれは俺の都合であって、土方先輩には何も関係のないことだった。
しかし、今。
彼女を傷つけ、そして捨てたこの人を。
俺は心の底から憎んだ。
恋人同士の事情に、他人が口を出すべきでないことなど分かっている。
分かっているが、我慢ならなかった。
何故に彼女を傷つけた。
何故に彼女を捨てた。
他にも付き合っている女性がいた、そのような状況で。
何故、軽々しく彼女に手を出したのだ。
持っていた委員会の資料を、廊下に投げ捨てる。
紙の束が崩れて宙を舞ったが、そのようなことはどうでも良かった。
そのまま拳を固め、一歩を踏み出した、その時。
ガタン、と大きな音。
続いて、喉の奥から漏れたような悲痛な嗚咽。
はっとして教室の中に視線を戻せば、彼女が両手で顔を覆って床に崩れ落ちていた。
その時俺は、優先するべきものが何であるかを正しく理解した。
踵を返し、廊下に土方先輩を残したまま教室に足を踏み入れる。
そして、泣き崩れた彼女の元に足早に近付いた。
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