揺れる心の傾く先に[2]
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用意された銚子を傾け、風間さんの持つ盃に注ぐ。
風間さんはどうやらかなり酒に強いらしい、ということが分かった。
斎藤さんと良い勝負かもしれない。

「お前も飲むか」
「いえ、私はあまりお酒は…」

そう断ると、風間さんは再び喉を震わせて。
見かけ通りか、と呟いた。
揶揄されているのだろうか。
少しむっとして、思わず風間さんを睨み付ける。
すると風間さんは呆れたように小さく溜息を吐き、突然私の手を引いた。

お互いに座った状態で、私はまたもや風間さんの腕の中。
無駄とは知りつつ、私はそこから抜け出そうと身を捩った。

「そう剥れるな。美人が台無しだ」

しかし、私の抵抗はそこで終わってしまった。

耳元に囁かれた、緩慢な口調。
身体が震えてしまうような、甘美な低音。

「な、にを言って…」

冗談にして、流してしまおうとした私を遮って。
風間さんが、私の顎に長い指を掛けた。
くい、と持ち上げられる顔。

「俺はお前が気に入った、ナマエ」

目の前に、驚くほど整った美貌。
その形の良い唇が、私に向かって愛おしげに言葉を紡ぐ様子を、私は呆然と見つめた。

「俺のものになるか」

ほぼ初対面と言える相手に、一体何を言い出すのか、とか。
鬼であるこの人は、人間が嫌いなのではなかったか、とか。
そんな疑問は、全てどこかに吹き飛んでしまって。

ただ、全てを見透かすかのような真っ直ぐな緋色の視線に捕らわれた。

「…風間さん、私、は、」

何と言うべきか、私は迷った。
新選組の女中なのだと、真実を告げるべきか。
それとも、既に契りを交わした相手がいると、嘘をつくべきか。
とにかく、拒絶をしなければならないはずなのに。

しかし私がその答えを出せないでいるうちに、風間さんは薄く笑って。

「…今宵はここまでだ。近いうちに、あの番犬共からお前を奪う。待っていろ、ナマエ」

私の耳元に、そう囁いた。

「っ、」

知っていたのか。
分かっていたのか。
その上で、私に近付いたのか。

言葉を失くした私の頬を、風間さんの大きな手が包み込んで。
気がつけば私は、風間さんに接吻されていた。
一瞬の、触れ合った熱。
私は目を見開き、離れていく風間さんの長い睫毛を見ていた。


「また会おう、ナマエ」


そう言って送り出された、夜道。
風間さんは屯所のすぐ近くまで、屋根伝いに私を見送ってくれた。
また誰かに襲われることのないように、という配慮らしい。

西本願寺の境内に足を踏み入れる直前、私は振り返って空を仰いだ。
建物の上、そこには月明かりを背に佇んで私を見下ろす風間さんがいた。
その輝く金糸に、心の臓がとくりと跳ねる。

私は慌てて背を向けると、足早に階段を駆け上がった。




「遅くなってごめんね、千鶴ちゃん」

斎藤さんと分かれた私は、急いで勝手場に向かった。
先に来ていた千鶴ちゃんが、米を炊く準備をしているところだった。

「いえいえ、大丈夫ですよ!」

いつ見ても明るい笑顔に救われる。
私はありがとうと笑って、早速夕餉の支度に取り掛かった。

「今日のおかずは何にしますか?」
「えっとね、青菜のお浸しと、大根でお味噌汁を作って、あとは高野豆腐の煮物」

私は、頭の中で用意していた献立を説明する。
すると、千鶴ちゃんがにっこりと笑った。

「高野豆腐ですか。斎藤さんが喜びますね」
「…うん、」

斎藤さん。
その言葉に、じくりと胸が疼いた。
先程見た、少し面映げな微笑が脳裏を過る。
私のことを好きだと言ってくれた。
私にはもったいないほどの人なのに。
どうして私はまだ、彼の想いに応えることが出来ていないのだろう。

その理由を、私は分かっているの。
分かっていて、気が付かないふりをしているの。


夕餉の席、おひつの中からごはんをよそい、幹部の皆さんに手渡していく。
まずは近藤さんと土方さんから。
山南さんは今日も部屋にこもってしまっているから、後でおにぎりを持って行こう。
そんなことを考えながら、次は上座に近い方から茶碗を渡していく。
井上さんに、沖田さんに。
そして。

「どうぞ、斎藤さん」
「…ああ、すまぬ」

この人は見掛けによらずかなりの大食いだと知っているから、沖田さんよりも多めによそって渡す。
受け渡しの時、微かに触れ合った指先。
斎藤さんが薄っすらと微笑んだ。
私も、精一杯の笑顔を返す。
その時、斎藤さんが何か言い掛けたけれど。

「おっ!今日も美味そうだな!」

丁度広間に入ってきた永倉さんの大声に、遮られてしまった。
そのことに、僅かな安堵を覚えながら。
私はそそくさとその場を離れ、次は原田さんの分のごはんをよそった。



その夜、夕餉の後片付けを終えた私は自室に戻り、疲れた身体を壁に預けて座り込んだ。
女中仕事に疲れたわけではない。
もちろん大変な仕事ではあるが好きでやっていることだし、千鶴ちゃんが手伝ってくれるようになってからは負担もかなり減って楽になった。
この疲労感は、身体の問題ではない。
ふとした瞬間に思い浮かぶ、二人の男の人の顔。
片や、碧い湖面のように静かで、包み込むような優しさを持った人。
片や、眩しいほどの金色を纏った、強烈で計り知れない熱を持った人。

自分で自分の気持ちが分からなかった。
私は、どうしたいのだろう。
どうすればいいのだろう。

大きく溜息を吐き出した、その時。
不意に耳に届いた喧騒。
どたばたと板張りの廊下を走る音、さらに聞こえてきた金属音。
私ははっとして立ち上がり、様子を窺おうと襖に手を掛けた。

しかし私が手を横に引く前に、外側から勢いよく襖が開かれた。

「っ、さ、斎藤さん?!」

目の前に現れた姿に驚いている間に、斎藤さんは私の肩を掴んで部屋に押し込むと、そのまま一緒に室内に踏み入って襖を閉じた。

「何事ですか?」
「侵入者だ」

その言葉に、ざわりと騒ぐ胸。

「侵入者…?」
「ああ、何者かが侵入したのを見たという隊士がいる。だが、あんたが案じることは何もない。相手が誰かはまだ分からぬが、今左之と新八が捜し出しているところだ」

私は分かってしまった。
そして恐らく、皆も分かっている。
再び鬼の襲撃だ、と。
だけどその目的は、前回と同じだろうか。
千鶴ちゃんの血筋が目的だろうか。

もし、もしもその目的が、千鶴ちゃんではなかったとしたら。

「ナマエ?」

はっと顔を上げれば、斎藤さんが私を見つめていた。
藍色の瞳に何もかも見透かされてしまいそうで、思わず俯く。
そんな私の様子を、侵入者に怯えていると思ったのだろう。
斎藤さんが、普段よりも柔らかい声で言った。

「心配せずともよい。あんたは俺が守る」

おずおずと、私を安心させようと抱き締めてくれる腕。
斎藤さんの着流しに顔を埋め、私は目を閉じた。

どうか、私の思い上がりであってほしい。
風間さんが私を攫いに来たなんて、そんなことはない、と。
彼の狙いは私ではなく、千鶴ちゃんであってほしい。
もちろん、千鶴ちゃんが攫われて良いという意味ではない。
でもきっと、彼女のことは皆が守るから。

だから、私は関係ないのだと。
そう、思いたかったのに。


不意に、私の身体を離した斎藤さんが右腰の刀に手を掛けた。
遅れること少し、私も感じ取る。
この部屋へと近づく、気配。

これは。

「ようやく見つけたぞ、ナマエ」

再び開け放たれた襖。
その向こう、闇夜に浮かび上がった金糸。
愉悦にも似た声を漏らした風間さんと、鋭く息を呑んだ斎藤さん。

私は黙って目を閉じた。




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