[4]信じるものが何ひとつ
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もしその時酒が原田の口内にあったとしたら、彼は先ほどの二の舞を演じていただろう。
だが幸いなことに、口の中に酒はなく。
原田は、空気を噴き出すのみに留まった。

「…まだって、一度もないってことか?」

原田の声が、知らずのうちに大きくなる。
斎藤はそれを窘めてから、ゆっくりとその問いに肯定を返した。

「お前ら、そういう仲になってからどのくらい経った?」
「…間もなく一年になる」
「だよなあ」

なるほどな、と原田は唸った。
つまり斎藤は丸一年もの間、惚れた女と生活を共にしながらも手を出せずにいたわけだ。
しかも斎藤は、花街で女を買うこともしない。
他の捌け口すら持たずに耐えるには、随分とつらい環境だ。

「お前、それは我慢しすぎだぜ。ナマエに思い切って伝えてみればいいじゃねえか。そういうことがしたいんだってよ」

確かにナマエも、斎藤に負けず劣らずその手のことには不慣れな印象がある。
そんな彼女に男の欲求を伝えるのは、いくらか度胸が必要だろう。
だが何事にも初めてがあるのだ。
いつまでも足踏みをしていないで、ぶつかってみればいい。

そんな、尤もらしい助言をした原田の前で。

「伝えた。伝えたら…断られたのだ」

そう言って、斎藤は深く項垂れた。
当然、原田は言葉を失くして黙り込む羽目に陥った。


そりゃきついな。
原田は心の中でそう呟いた。

目の前で、まるで世界の終わりを迎えたような絶望感を漂わせる斎藤を、心から憐れに思う。
好いた女を抱きたいと思うのは男として当たり前のことであり、そしてそれを断られれば落ち込むのもまた当たり前のことである。
いや、落ち込むどころでは済まない。
文字通り絶望するだろう。

「…あー、斎藤?その、ナマエにそれを言ったのは一度だけか?」

このまま男二人顔を突き合わせて黙り込んでいても始まらないと、気を取り直した原田が解決策を模索する。

「いや…昨夜断られたのが三度目だ」

三度。
それでは心も折れるだろう。
今朝の斎藤の様子を思い出し、原田は深く納得した。
あの時の斎藤は、前夜にナマエの部屋を訪ねて思いの丈を伝え、そして断られた後だったのだ。
食欲がないのも頷ける。

「ナマエは、その、何でしたくないのか理由を言ったか?」
「…いや。いつも、ごめんなさいと謝られるだけで、理由を聞いても答えてはくれぬ」

どうしてだと追い縋るうちに泣きそうな顔をするからそれ以上は踏み込めないのだと、斎藤はそう言って酒を呷った。
いつの間にか斎藤の前には、空になった銚子が四本も並んでいた。

「ナマエは…本当は俺のことなど好いてはおらんのかもしれぬ」

沈痛な面持ちで漏らされた言葉に、原田は唇を噛んだ。

斎藤の気持ちは分かる。
共に想い合っているはずの相手なのに、何度誘っても断られる。
その想いを疑いたくもなるだろう。

だが、原田は知っている。
斎藤の隣にいる時、ナマエはとても幸せそうに笑うのだ。
彼女は確かに、斎藤を好いている。
きっと共寝をしたくない、何か特別な理由があるのだろう。
そしてそれは、ナマエ自身しか知らないのだ。



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