届かぬと知っていてもなお[4]「悪いんだけどね、」
だから、その瞬間。
彼女が何を言ったのか、即座に理解することが出来なかった。
「今夜は先約があって。また今度ね」
そう言って。
彼女はちらりと俺に視線を投げてきた。
「ああ、そうだったんですか。すみません俺、空気も読まずに」
唖然と固まった俺の前で、男は何を疑うこともなく申し訳なさそうな顔をする。
「では、お先に失礼します。お疲れ様です」
そしてそのまま、軽く頭を下げて歩き出す。
彼女がその背に向かって、皆によろしくね、と声を掛けた。
そして、その姿が完全に見えなくなったところで。
「勝手に使ってごめん」
彼女は俺に向き直ると苦笑した。
「何故…」
「ああ。別に悪い子たちじゃないんだけど、とにかく騒がしくってね。勿論たまにはそれもいいんだけど、今日はちょっとあのノリはつらいなあ、と」
呆れたような口調。
だが、心底嫌そうではなかった。
きっと、可愛がっているのだろう。
煩い静かにしろと散々怒鳴り散らしながらも、決して部下を蔑ろにしない。
そんな土方部長に、似ていると思った。
「…騒がしくなければ、良いのか」
そして、己の考えに再び焦燥感が募った。
「え?」
「静かであれば飲みに行っても構わぬのか、と」
この切なさを、この痛みを。
植え付けるのは彼女だけであり、また取り除くのも彼女だけなのだ。
「うん、まあ、」
「それならば、今から俺と飲みに行かぬか。知っての通り、騒がしくはない」
その瞬間が、初めてだった。
常に受け身だった俺が、初めて彼女を自ら誘った。
静かな口調とは裏腹に、心臓は痛いほど暴れ回っていた。
「…うん、いいよ」
それは、彼女の返事を聞いた途端に甘い疼きへと変わった。
「その前に、一本だけ吸って行っていい?」
そう言って、彼女が無人の喫煙所に視線を向ける。
「ああ、構わぬ」
「ありがとう」
彼女は笑うと踵を返し、喫煙所に向かって歩きながらバッグの中を漁った。
煙草を探しているのだろう。
その後ろ姿を、じっと見つめていると。
ドアの手前で、突然彼女が振り返った。
そして。
「一緒に、どう?」
そう言って、彼女は取り出したシガレットケースの中から引き抜いた煙草を唇に咥えた。
まだ火のついていない煙草の先端が、まるで誘うようにゆらりと揺れる。
一瞬で、顔に熱が集まったのが分かった。
向けられた視線に耐え切れず、あらぬ方向に目を泳がせる。
だが俺の脚は勝手に、喫煙所を目指して一歩を踏み出していた。
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