届かぬと知っていてもなお[2]会議を終え、オフィスに戻る途中だった。
土方部長の半歩後ろを歩いていた俺は、前方に彼女の後ろ姿を見つけて息を呑んだ。
ファイルを小脇に抱え、エレベーターホールの方へと歩いて行く。
黒いパンツスーツの後ろ姿を、俺が見間違うはずなどなかった。
ナマエさん。
そう呼びたくて、だが呼ぶわけにはいかなかった。
俺一人だったならば、名前を呼んで足早に追いかけることも出来た。
だが、それを土方部長の前でやるわけにはいかなかった。
「…ナマエ?」
資料片手に歩いていた土方部長が、俺より一拍遅れて彼女に気付いた。
「おい、ナマエ!」
彼女の背中に掛けられた声。
周囲の注目など気にすることなく、当たり前のように。
大声でその名を呼べる立場を、羨ましいと思ってしまった。
驚いたように、彼女が振り返る。
「トシ君!」
当然、その口から出てきた名前は俺のものではなく土方部長のものだった。
彼女が、俺たちが追いつくのを待つように立ち止まる。
土方部長が足早に彼女に近付き、俺もその後ろを追った。
「お疲れ様」
彼女が土方部長を見、そして俺を見る。
「ああ」
「お疲れ様です」
俺は小さく頭を下げた。
「お前も会議か?」
「うん。ほら、こないだ話した新企画のね」
「ああ、あれか。上手くいきそうか?」
「誰に言ってるのかな」
土方部長が、彼女と並んで再び歩き出す。
当然俺がそこに割り込めるはずもなく、二人の後を付いて行く形となった。
「大した自信じゃねえか」
「トシ君には負けるよ」
後ろからでは、顔は見えない。
だがその声の調子から、二人が笑い合っていることは容易に想像出来た。
「まあいい。だが、あんま無理すんじゃねえぞ」
「分かってますって」
何の違和感もなく、自然と言葉が重なっていく。
そこに遠慮のようなものはなく、お互いがお互いを良く知り、信頼し合っている様子が伺えた。
エレベーターホールに着いたところで、四機あるうちの一機のドアが丁度目の前で開く。
中から二人の男性社員が降り、箱は無人になった。
そこに、土方部長と彼女が並んで乗り込む。
「…斎藤?どうした」
二人が揃って振り向いて、そしてエレベーターに乗り込まずに立ち止まった俺を見て首を傾げた。
二人並んだ姿を直視出来ずに俯いた俺は、まるで上役を見送る部下の図だ。
実際二人は俺の上司に当たる故、間違った表現でもない。
「おい、まさか気にしてんのか?乗って構わねえんだぞ?」
土方部長は、俺が上司二人の会話を邪魔すべきではないと判断して同乗を遠慮したと捉えたらしい。
呆れたような、半ば感心したような顔を向けてくる。
しかし俺の本意は、全く別のところにあった。
「いえ、俺は所用があります故、ここで」
そう告げて頭を下げ、俺はその場から引き返した。
本当の理由など、まさか説明できようはずもない。
あんたたち二人が揃っているところは見たくない、などと。
誰が言えるだろうか。
俺は行く当てもなくエレベーターホールを後にし、適当な廊下を選んで歩いた。
足を進めつつ、思い出すのは先ほど見た彼女の笑顔だ。
嬉しそうに、楽しそうに。
綺麗に、笑っていた。
いつもならば、目にしただけで幸せな気分になれる。
そんな笑顔だった。
だがそれを向けられたのが俺ではなく土方部長だったというだけで、胃が捩れたように痛みを訴える。
もちろんあの場で、彼女が土方部長を差し置いて俺と話すなどあり得ぬことだ。
そんなことは分かっている。
だが、そう理解はしていても、感情は追いついて来なかった。
俺になど目もくれず、俺には分からぬ内容の話をしていた。
その空気に耐えられず、俺はその場から逃げ出した。
彼女に、近付けたと思っていた。
私、何かしちゃったかな、と。
不安げに訊ねてきたあの日。
俺はそれを否定して、本音の一部をぶつけた。
彼女はそれに対して無邪気に笑い、そしてまた口付けをくれた。
また新たに彼女の一面を知った、と。
また彼女に一歩近付けたのだ、と。
そう思っていたのに。
土方部長は、俺よりもずっと先に、ずっと彼女の近くにいる。
恋人同士なのだから、それは当たり前といって然るべきだと分かっていても。
この開き過ぎた差に、焦燥感が募った。
あの二人を見ていると、その間に入って彼女を奪うことなど到底不可能だと思い知らされる。
彼女が土方部長と別れて俺を選んでくれる可能性など、きっと万に一つもない。
それならば俺は、どうすれば良いのだ。
ここで大人しく、ならば仕方ないと引き下がることが出来たならばどれほど良かっただろう。
二人の幸せを心から願えたならば、どれほど良かっただろう。
しかしそんな心持ちには、到底なれそうもなかった。
かと言って、真っ向から戦うことも出来ないでいる。
彼女に気持ちを伝えることも出来ず。
土方部長に、彼女のことを好いている、と宣戦布告することも出来ず。
俺は中途半端なまま、勝手に傷ついているだけだ。
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