いつかこの涙が[1]
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考えても答えは出ないけれど、いつも思うんだ。

私たちは、どこで何を間違えてしまったんだろうって。



「何故こんなに帰宅が遅いのだ。何をしていた」

玄関ドアを開けるなり視界に飛び込んできたのは、能面のような顔をしたはじめが仁王立ちしている姿だった。
おかえりもただいまもなく、詰問する声はいつもよりずっと低い。
冷ややかな蒼い目の奥が見えなくて、私は少し怯えた。

「何って…残業、だけど」

残業といっても、定時を30分ほどオーバーしただけである。
そもそも30分なんて、こんなに帰宅が遅い、と言われるような時間ではない。

「何故連絡して来ぬのだ」

はじめは私の言い分を聞いていたのかいなかったのか、尚も鋭い視線で見据えてくる。
私はといえば、パンプスを脱いでいないどころか背後のドアの鍵さえかけていない状態で玄関に釘付けだ。

「そんな、だってたったの30分じゃない。別に帰る時間を約束してたわけでもないのに」

例えば待ち合わせをしていたとか、何時に帰ると伝えていたとかだったら、30分の遅刻は連絡をして然るべきだ。
でも、そんなことはなかった。
たまたま今日ははじめが先に家に帰っていただけで、いつもは大抵はじめの方が帰宅が遅い。
何時に帰る、と約束していたわけでもない。
まだ仕事中かもしれないはじめに、残業で30分遅れる、なんて連絡を入れる必要があっただろうか。

「たったの、だと。あんたは俺がこの30分間、どのような思いでいたと思っているのだ」

その責めるような口調に、黙って唇を噛んだ。

最近は、いつもこうだ。

少し帰宅が遅れただけで不機嫌になる。
家にいない間、定期的に連絡を入れないと怒る。
休日に友だちと食事をしようとしても許してくれない。
家にいる時にスマホを弄ると、すぐにメールの相手を問い質される。
挙句の果てに、そのスマホを調べられる始末だ。

「…ごめん、なさい」

下手なことを言うと余計に怒らせてしまうと学んだのは、いつのことだったか。
理不尽だと思っても、言い返せない。
言い返さない方が、結局は私のためになる。

「して、本当は何をしていた。他の男と会っていたのか」

その問いも、いつもと同じ。
メールをしていても、誰かと出掛けようとしても、帰りが遅くなっても。
はじめの中では全てが、私が誰か他の男の人と親しくしている、という疑いに直結する。

「ほんとに、残業だったの」

私はいつもその問いを否定するけれど、はじめはまるで信じてくれない。
睨み付けるような目で、隠し事は許さないとばかりに私を見る。

「あんたは残業だと言えば何でも許されると思っているのか」
「ほんとに残業だったんだから、そう言うしかないでしょ?」

端から疑ってかかるはじめと、平行線を辿るやりとりに嫌気が差す。

「仕事なんだから、仕方ないじゃない」

とりあえずいい加減にパンプスを脱いで、ソファに座りたい。
仕事で疲れて帰って来たのに、どうして浮気を疑われなくてはいけないのか。
私は苛立ちを隠せずに、少し投げ遣りな口調でそう言った。

するとはじめは顔を顰め、次いでとんでもない台詞を口にした。

「それならば、仕事を辞めろ」
「…は?」

唖然となった。
何の冗談かと思った。
しかし私の視線の先、はじめは至って真剣な、そして明らかに苛立った表情をしている。
決して冗談を言っている顔ではない。

「なんで、そんな、」

たかが30分残業をしただけで、どうして仕事を辞めろとまで言われなくてはならないのか。
頭が全く付いていけない私に、はじめが更に暴論を突き付けた。

「仕事と偽って俺以外の男を誑かすのならば、仕事など辞めてしまえと言っているのだ」


その瞬間、私は唐突に限界を迎えた。

「おかしいよ、はじめ。ねえほんと、おかしい、それ」

ただ、思ったことがそのまま単語になって口から漏れる。

「はじめがね、私を愛してくれてるのは分かってるよ。でもこれじゃ、私に人権なんてないよ。こんなの、違う」

ずっと思っていたことが。
思っても言えなかったことが。
堰を切ったように溢れ出す。

「もう、無理だよ。ごめん…」

私は最後にそう言い残し、鍵の開いたままだった玄関ドアを押し開けると家を飛び出した。


最後にちらりと見たはじめは、信じられないとばかりに驚いた顔で私を見ていた。



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