この距離を飛び越えて[1]
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左手の中のスマートフォンが、呼び出し音を耳に伝える。
一回、二回、三回…。
重なる度に、鼓動が速まる気がした。

電話は、あまり好まぬ。
元より人との会話が苦手なのだ。
相手の顔が見えない電話というツールは、余計にその苦手意識を増長させる。

いま、何をしているだろうか。
迷惑ではないだろうか。
タイミングは悪くないだろうか。
不安は尽きなかった。

そして、ついに六回目で。

『もしもし』

途切れた呼び出し音の代わりに、切望していた声が聞こえた。

「斎藤だ。いま、大丈夫だろうか」

それでもこの苦手な電話に頼るのは、彼女の声を聞きたいが故。

『うん。丁度ね、さっき帰ってきたところだったの』
「そうか」

声の調子を聞く限り、タイミングは悪くなかったようだ。
迷惑そうな口振りでもない。
そのことに、一先ず安堵した。

しかし、問題はここからである。

何度も言うようだが、俺は人との会話が苦手なのだ。
実際に相手が側にいて、それが親しい間柄ならば、会話がなくともその場は成り立つ。
だがこの電話というものは相手の挙動が見えぬ故、会話がなくては成り立たぬのだ。

俺から電話を掛けた以上、俺が話題を提供するべきだということは分かっている。
しかし俺は彼女の声が聞きたいと思い電話をかけたわけであって、何か用事があったわけではない。
そもそもこうして毎晩電話をしていれば、新たな話題など早々見つからぬ。

『はじめ?』

案の定、相槌を打ったきり黙り込んだ俺を訝しむ声が聞こえてきた。
何か言わなければと焦れば焦るほど、口は上手く動いてくれぬ。
それに呆れたのか面白かったのか、彼女が笑う声が小さく聞こえた。

「な、何だ」
『ううん、なんでもない。はじめは?もう家?』
「ああ」
『そう、お疲れ様。企画書、上手くいったの?』

そしてこれもまた毎晩同じように、彼女が話題を作ってくれる。

「ああ。土方さんも満足して下さったように思う」
『流石はじめ、よかったね』

電話越し、彼女がどんな顔をしたのか分かった気がした。
きっとあの柔らかな笑顔を、しているはずだ。
それを見られないこの状況を、寂しく感じた。

「…あんたの方は、どうだったのだ」
『それがね、昨日話した新人くんがさ、』

新人くん。
その単語に、少し気持ちが揺れる。
それは恐らく、昨日彼女が言っていた、ミスばかりだがどうにも憎めないという新人の話で。
だが、昨日は新人としか言っていなかった。
くん、がつくということは、その新人は男だということだ。

『まあ、出来ないなりに頑張ろうとする姿勢は評価できるんだけどね』

彼女は苦笑混じりに、今日起こったトラブルとその新人の対応を振り返る。
俺はと言えば、込み上げる微かな苛立ちを抑えようと黙り込んだ。

『はじめ?聞いてた?』

しかし当然、電話の向こうの彼女にそれが伝わるはずもなく。
ああ、と頷けば、予想よりも低い声が出た。

『大丈夫?疲れてる?』

まさか、あんたが男の話をするから嫉妬したなどと口に出せるはずもなく。
少し躊躇ってから問題ないと答えたが、どうやら彼女の中で話が違う方向にシフトされてしまっていた。

『もう、疲れてるなら無理して掛けてこなくていいのに。今日は早く寝たら?』

きっとそれは、彼女の優しさだったのだ。
疲れているならゆっくり休んでほしいという、気遣いだったのだ。

だがその時の俺のささくれ立った心境は、見事にその意味を取り違えた。

「…それは、俺の電話は迷惑だと言いたいのか」
『え?いや、そうじゃなくてね』

言外に、落ち着いたら、と窘められた気がした。
その彼女の平静さすら、燻る苛立ちを大きくした。

「もう、よい。あんたの言う通り、早く休むことにした」
『ちょっと、ねえ、はじめ?』

何か言いかけた彼女の声を、皆まで聞かずに。
俺は通話終了のアイコンをタップした。
たったそれだけの作業で、俺と彼女を繋ぐものは何もなくなる。
呆気ないものだ。

まるで、今の俺たちのようだ、と。
そんな皮肉が脳裏を過った。


それが、木曜日の夜のことだった。


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