曖昧な境界線を越えて[3]
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「で、どうしたよ。そんな顔して」

そのまま家に帰る気にもなれず、俺は行きつけのバーに立ち寄った。
去年大学を卒業した先輩である、左之が働いている。

「そんな、とはどういう意味だ。俺は元々このような顔だ」

手元のロックグラスを呷って答えれば、左之は呆れたように苦笑した。

「分かった分かった。そういうことにしておいてやるよ」

その言い方に、また己が年下であるということを気付かされる。
張り合ったところで無意味だということは、よく分かっているのだ。
この世に己よりも年上の男など数え切れないほどいて、その逆も然り。
何をどう頑張ったとて、生まれは変えられない。

それでも、あの男に嫉妬し、彼女に八つ当たりし、そしてこんなところで自棄酒を呷る己の未熟さに嫌気が差した。

こんな風に、まるで己を見失うほど人を好きになったのは、彼女が初めてだった。
今までも何人かの女性と交際をしたことはあったが、いつだって己のペースやスタンスは崩さず、相手がそこに不一致を感じた時点で関係は終わりだった。
誰かに己を崩されることを、俺は酷く疎んでいた。

その俺が今や、彼女に追いつきたい一心で自ら己を崩しにかかっている。
もっと、もっと側にいたい。
頼りにされたいと思うし、彼女の抱えるものも纏めて背負ってやりたいと思う。
だがきっと俺は彼女にとって、そのように頼れるような存在ではないのだろう。
俺には仕事の愚痴も言わず、弱音も吐かない。
そんな彼女に、いつも寂しさを感じていた。


「何があったかは知らねえがな、斎藤。大事な女を泣かすようじゃ、男失格だぜ」

不意に、左之がそう言って。
俺の背後に視線を向けた。
つられるようにして、振り返ったそこには。

今にも泣き出しそうな顔をした、彼女が立っていた。


「ナマエ…」

全く予想していなかった展開に呆然と名を呼べば、彼女は肩にかけていたバッグをその場に放り出した。

そして。

「はじめの馬鹿っ」

そう罵ったかと思ったら、俺の方に駆けてきて、そのまま飛び付かれた。
背凭れのないスツールに腰掛けていた俺は、すんでのところで彼女を受け止める。
俺の胸元に顔を埋めた彼女は、それでもなおくぐもった声で馬鹿と言い続けた。
俺は何が何だか分からぬまま、それでもその温もりを失くしたくはないときつく抱き締める。
彼女の身体は、華奢だった。

「なに、が、ごゆっくりよ。馬鹿なの、ねえ!私ははじめと、はじめといたかった、のに…っ」

途切れ途切れに紡がれた言葉に、胸を突かれる思いがした。
彼女がこんな風に声を乱したところを初めて見た。
思わず、その髪をそっと撫でる。
触れた首筋は、少し汗ばんでいた。

電話に出ない俺を、必死で探してくれたのだろうか。

「…っ、すまなかった、ナマエ」

スツールを降り、彼女をしっかりと抱き寄せる。
震える身体に、ただ愛おしさが募った。

「俺が悪かった、すまない」

カウンターの中にいる左之の視線も、他の客の好奇の目も、気にならなかった。

「あの男に、嫉妬した。弟、などと言われた己が不甲斐なかったのだ。もっと、あんたに近付きたかった。もっと、あんたに頼られたかった」

八つ当たりをしてすまなかった、と。
抱き寄せた彼女の耳元で呟けば、彼女は緩く首を振った。

「私も、ごめん。せっかく一緒にいたのに、上手く躱せなくて。…誰かにね、はじめのこと彼氏だって紹介したの初めてで、なんか、照れちゃって」

その、不意打ちの衝撃的な発言に、俺は固まった。
恐ろしく可愛らしいことを口にした彼女が、嫌な思いをさせてごめんねと上目遣いに見上げてくる。
突然速まった鼓動に、俺は慌てて口元を覆った。
何てことを言うのだ、彼女は。

「はじめ?」
「…な、何でもない」
「…もしかして、照れてる?」
「そ、そのようなことは、ない」
「そう?」

思わず後ろに後ずさった。
しかし、当然ながらそこには先程まで俺が座っていたスツールがあって。
俺は逃げ場を失う。

先程までの不安げな表情はどこへやら、彼女が楽しげに笑った。
やはり彼女には敵わないと、そう思わされる。
だがやはりそれも悪くないと思うあたり、結局のところ俺は彼女に心底惚れているのだろう。


「ね、大好きだよ、はじめ」

耳元に囁かれたその言葉に、俺はスツールに崩れ落ちた。



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