曖昧な境界線を越えて[1]二十歳という年齢を迎えれば、大人になれるのだと思っていた。
確かに、酒は飲めるようになった。
俺は吸わないからあまり関係はないが煙草も買えるようになったし、選挙権も得た。
しかし、大人にはなれなかった。
結局のところ、大学生と大人との間にある深い溝は、二十歳という一線を越えてもなお埋まることはなかった。
いま思えば、ひどい八つ当たりだ。
その日、今日は定時で上がれそうと連絡が来たのは昼頃のことだった。
俺は今日は4限までで、17時前には大学を出た。
待ち合わせは、彼女の会社の最寄り駅。
彼女が上がるまで、近くのカフェで読みかけだった文庫本の続きに目を通した。
終わったとのメールを受けて、駅の改札口に向かう。
俺に遅れること数分、2週間ぶりに彼女の笑顔を見つけた。
「ごめん、待った?」
「いや。俺もいま着いたところだ」
チャコールグレーのパンツスーツ。
少し茶系の混じった髪は、鎖骨辺りで内側に緩く曲線を描いている。
その顔は笑っていたが、少し疲労を滲ませているようにも見えた。
ここ最近はずっと忙しいと言っていた故、あまり寝ていないのかもしれない。
「はじめは明日2限からだったよね?」
「ああ」
「だったら、少し飲みに行かない?」
「構わない」
よし、決まり、と。
彼女は嬉しそうに笑い、改札に向かって歩き出した。
店は、何度か彼女と二人で入ったことのある居酒屋にした。
落ち着いた雰囲気を、俺も彼女も気に入っていた。
夏はこれだよと、彼女が美味しそうにビールを飲む。
それに同意しながら、俺もジョッキを傾けた。
そうして、久しぶりに得た二人の時間を楽しんでいた時のことだった。
「お前、ナマエ?」
不意に呼ばれた、彼女の名前。
声のした方を振り向けば、丁度隣のテーブル席に案内されてきた四人組の男性客の内の一人が、彼女を見ていた。
「えっ、うそ、トシ?」
彼女は心底驚いたような顔で、その男の名を呼んだ。
どうやら知り合いらしい。
「やっぱりナマエか。なんだ、随分久しぶりじゃねえか」
「やだ、なんでこんなところにいるの?会社この辺だっけ?」
「いや、こいつらは昔馴染みなんだ」
そう言って、トシと呼ばれた男が背後の男性三人を振り返る。
どうも、と愛想よく挨拶をする彼らに、彼女もにこやかに応じた。
話を聞く限り、このトシと呼ばれた男は彼女の大学時代の同窓らしい。
「そっちは…弟、か?」
男が俺の方に視線を寄越す。
その言葉に、ぐ、と拳を握り締めた。
「やだ、違うよ。私の家系からこんなイケメンは生まれません」
戯けた口調でそれを否定した彼女は、俺のことを彼氏だと紹介した。
男が、へえ、と意外そうな顔をしたのを、俺は見逃さなかった。
「それにしても、なんだ。意外といい女になったな、お前」
「ちょっと。どういう意味かな、それ」
「課題が終わらないーって泣きついて来たお前も可愛かったぜって意味だ」
「最っ低。性格悪いとこ、全然変わってないね」
四人掛けのテーブル席で、最も彼女の近くに腰掛けた男は、飲み物が運ばれて来てもなお彼女に話しかける。
他の男三人は、そんなことは気にもとめずに彼らだけで乾杯をしていた。
俺は黙ってビールを飲みながら、目の前で繰り広げられる大学時代の思い出話を聞いているしかなかった。
時折、彼女が気を遣って俺にも話を振って来る。
だが、元々口下手な上に、彼女と親しげに話す男の存在に対する苛立ちが加わり、俺は殆どまともに受け答えも出来なかった。
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