甘い毒と苦い舌[3]
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「それにしても、トシ君の部下だったなんてね」

会話の切れ目、ぽつりと零された一言に、心臓が嫌な音を立てた。
恋人の部下と二人きりで飲んでいるというこの状況を、彼女はどう考えているのだろうか。
その口調からは、何も読み取れない。

「あの人、人使い荒いでしょ」
「いや、そのようなことは…」

土方部長をよく知っているような発言に、苦い思いが沸き起こる。

「ふふ、優しいのね。そりゃトシ君も可愛がるわけだ」

良い部下を持てて幸せね、と。
彼女は笑った。

良い部下。
果たして本当にそうだろうか。
仕事上では確かに、未熟ながらも土方部長に尽くしてきたつもりである。
頼りにしてもらえている、という実感もあった。

しかし、この現状はどうだろうか。
彼女が土方部長の恋人だと知っていて、それでもこうして二人きりで飲みに来た。
口づけも、己からはしていないとはいえ、彼女を拒絶したことはない。
こんなことは良くないと言うべきなのだろうが、いざ唇を合わせれば理性など吹き飛び、その熱に溺れる始末だ。
土方部長に合わせる顔などなくなる行為でしかない。

「…あんたは、その、土方部長とは」

我ながら、自虐的な質問だった。
自分で自分の首を絞めてどうするのか、そんな思いもあった。
だが同時に、彼女のことを一つでも多く知りたい己がいることもまた事実だった。

「ああ、トシ君とは大学の同期でね」

そして案の定、返された答えに傷ついた。
大学の同期。
そんなに古くからの付き合いなのか。
恐らく、その頃から交際を続けているのだろう。
一年二年の関係ではないということだ。
二人の落ち着きぶりを見れば、納得出来るような気もする。
二人でいるところを見られても一向に照れた様子がなかったし、土方部長も平気で俺と彼女を二人きりにした。
その裏には、深い信頼と安定感が根付いているのだろう。

俺の付け入る隙など、ないほどに。

グラスを大きく傾ける。
結婚していないのなら、彼女を奪えるかもしれない。
そんな安易な考えを持っていた己に嫌気が差した。

「斎藤君?」

自分から質問した癖に黙り込んだ俺を訝しんで、彼女が首を傾げる。

「い、いや。すまない、何でもない」

慌ててそう返すと、彼女は不思議そうな顔で俺を見つめた。
店内の照明を受けて揺れる瞳に、ふっくらと柔らかそうな唇に、身体の中心を妙な熱が走り抜けた。

その熱を、その感触を、俺は知っている。
ふくよかな唇は甘く、絡みつく舌は苦い。
巧い、と言わざるを得ない口づけは情熱的かつ艶やかで、俺の理性や道徳心を根刮ぎ奪っていく。
吐息も唾液も全て混ぜ合わせるような、狂おしいほど扇情的な口づけ。

ごくり、と己の唾を飲むくぐもった音が体内に響いた。

そんな俺の内心は、恐らく彼女に筒抜けだったのだろう。
赤い唇が、弧を描いた。
それだけで何かを期待する俺は、一体どうなってしまっているのだろうか。

しかし彼女は悪戯っぽく笑っただけで、俺から視線を逸らしてしまった。
華奢な右手が、最後の一つとなったチョコレートに伸びる。
俺は黙って、その一粒が彼女の唇に吸い込まれるのを見ていた。

と、その時。

彼女がおもむろに俺の方に向き直り、そして俺のネクタイを掴んだ。
何かを考える暇などなかった。
引き寄せられた身体。
目の前に迫った、赤い唇。

「んぅ…っ」

唇が触れたかと思えば、すぐさま舌で歯列を割られ。
舌と共に、固形物が口の中に押し込まれた。
それがチョコレートだと気がついた時にはすでに、俺の舌は彼女の舌に絡め取られていた。
二人分の熱と唾液で、チョコレートが柔らかく溶けていく。
最早、甘いのか苦いのか、それすらも分からなかった。

やがてチョコレートがすっかり溶けきって、唾液と共に全て俺の喉に飲み込まれた頃。
見計らったかのように、俺の唇は解放された。

「…な、にを…」

思わず漏れた言葉に、果たしてどれほどの意味があったのか。
しかし彼女はその問いを拾い、妖艶に笑った。

「やっぱり、口移しの方がよかったんでしょ?」

俺の顔は恐らく、バーの薄暗い間接照明でも誤魔化せないほど赤くなった。
完全にフリーズした俺を余所に、彼女はまるで何事もなかったかのような表情に戻ると煙草を咥えた。

俺は、普段の九割方は機能を停止した脳で、思った。
その煙草のフィルターになれはしないだろうか、と。
人に"咥えられたい"などと思ったのは、生まれてこの方初めてのことだった。

やはり彼女は、毒なのだ。
こうして俺は徐々に、その毒に侵されていく。



甘い毒と苦い舌
- そして溶けたチョコレート -



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