[41]心の声は誰が聴くこともなく
bookmark


風間様が所用とやらを終えて屋敷に帰って来たのは、私が襲われたあの夜から二日後のことだった。

風間様が戻られた時、私は自室から庭を眺めていた。
いつまでも主のいない部屋にいるのは居心地が悪く、今朝天霧様に頼んで私の部屋に戻ることを許してもらったのだ。
屋敷からは絶対に出ないという約束のもと、私はようやく天霧様の監視の目から逃れることができた。

夕餉の後、月明かりを頼りに庭を眺めていた私は、背後で襖の開く音に振り返った。
そこには、いつもと変わらず黒い羽織と白い着物を纏った風間様が立っていた。
あの黒い羽織は、専門の洗い物屋に出したのか、血の匂いはしなかった。

「気分はどうだ」

開口一番、風間様はそう聞いた。
戻ってきて一番最初に私の体調を気にかけてくれたのかと思うと、擽ったい気分だった。

「もうすっかり元通りです」

嘘ではなかった。
ここ二日間で風間様の指示に忠実な使用人の監視の元、精のつきそうな食事を日に三度食べさせられたのだ。
貧血はすっかり治っていた。

「そうか。ならば付き合え」

そう言って、風間様は部屋を出て行った。
一瞬何に付き合えと言われたのか分からなかったが、すぐにそれが晩酌のことだと思い至った。
私は勝手場で酒を用意し、風間様の部屋に向かった。

この二日間、風間様がどこで何をしていたのか気にならないと言えば嘘になる。
だが余計な詮索は賢明ではないだろうと思い、私は何も言わずに風間様に酌をした。
風間様は相変わらず無言だったが、あの夜の殺伐とした雰囲気はなくなっていた。
彼もまた、元通りに戻ったように見えた。

あの夜の恐怖を忘れた、とは言えない。
あの痛みも絶望も、身体はしっかりと覚えていた。
しかしそれよりも、その後自覚した風間様への想いの方が大きすぎて、私はあの夜の出来事を心の奥底に仕舞い込むことが出来ていた。

優雅な所作で盃を傾ける風間様を見ながら、私はふと考えた。
こうして二人で酒を飲む機会は、あとどのくらいあるのだろうか。

例えば私が風間様に嫁いだとする。
すると私たちは、西の隠れ里に赴くことになるだろう。
風間様はそこの頭領なのだから当たり前だ。
今この屋敷にいる間、風間様は一人の男鬼だ。
私もまた、一人の女鬼だ。
だが一度里に足を踏み入れてしまえば、風間様も私も公人となる。
風間様には頭領としての責務がそれこそ山のようにあるのだろう。
そしてまた、私にも頭領の妻としての立場というものがあるのだろう。
きっと普通の家庭のように、夫婦水入らずの時間など殆ど取れないに違いない。
こんな風に二人だけで酒を酌み交わすことだって、きっとなくなってしまうはずだ。

では、ずっとこのままだったとしたら。
そうすれば、風間様を独り占めすることが出来るのだろうか。
いや、そんなことはない。
いくら風間様が私が婚儀に了承するのを待ってくれているとは言え、それだって無期限に待てるわけではないはずだ。
明確な期限は知らないが、西の頭領たる彼がいつまでも京に留まっているわけにはいかないだろう。
この曖昧で穏やかな時間にも、終わりがあるのだ。

それならば、どうすればいい。
私がこの先も風間様といたいならば、嫁ぐしか道はない。
だが、私は風間家の妻に相応しいだろうか。
私は風間の里で育った鬼ではない。
いくら名家の出とはいえ、西の鬼たちからしてみれば、私は部外者のようなものだ。
そんな私が突然風間様の妻として現れるのだ。
大歓迎を期待出来るとは到底思えない。
風間様と天霧様以外誰も知り合いがいないそこで、私はきちんと努めを果たすことが出来るだろうか。
風間様に恥をかかせないような振る舞いが出来るだろうか。

そして何よりも、寂しさに耐えることが出来るだろうか。
今までの風間様との関係は、里に行けばもうあり得ない。
こんな風に二人でいる時間は、きっと多くはない。
天霧様だって、私の相手をしている暇などないだろう。
そんな中、私は一人で戦えるだろうか。

答えは、出ないまま。

「どうだ。俺の元に嫁ぐ気になったか」

最早聞き慣れた、風間様の問い。
今日ほど真剣に、答えを悩んだことはなかったかもしれない。
それでも私は、まだ。

「……いえ。申し訳、ありません」

呟くような声で、そう答えた。

「……そうか」

そう言った風間様の顔は、もしかしたら見間違いだったのかもしれないが、少し悲しげだった。
唇を自嘲気味に歪めたその表情が、脳裏に鮮明に焼き付いた。



prev|next

[Back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -