[36]花を踏まぬ獣のように
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風間様の言いつけ通り、目蓋を落とす。
なくなった視界。
でも、怖いものはもう何もなかった。

暗闇の中から、風間様の地を這うような声が聞こえる。

「低俗な愚物共め……!我が妻に手を出したのだ、相応の覚悟は出来ているのだろうな」

こんなに憤った声を聞いたのは、初めてだった。
匡さんと言い争いをしていた時とは比べものにならないほど、殺気に満ちた声音だった。

その後のことは、まさに一瞬の出来事だった。
刀が空を斬り、そして肉体を貫く音。
断末魔の悲鳴と、何かが床に崩れ落ちる音。
そして、刀を鞘に収める音。

ゆっくりと近づいて来た気配が私の隣に膝をつき、両腕で身体を抱き起こしてくれた。
目を閉じたままでも、何も怖くはなかった。
私はその腕の持ち主を、ちゃんと分かっていたから。
ばさり、と衣擦れの音がして、不意に私の身体は何かあたたかいものに包み込まれた。
良く知ったその匂いは、風間様のものだ。
きっと、いつも着ている黒の羽織を私に着せ掛けてくれたのだろう。
そのまま風間様は私の背中と膝裏に腕を回すと、私を難なく抱き上げた。
その温もりに、胸元から伝わってくる鼓動に、私は身体の力を抜いた。

どうしてここが分かったのか。
どうして助けに来てくれたのか。
こんな有り様になった私を、どう思っているのか。
分からないことばかりで。
それでも私は、風間様の匂いに包まれてようやく、生きた心地を味わった。

夜風が頬を撫でる。
風間様が私を家の外に連れ出してくれたのだと分かった。
大きな浮遊感があったから、どこかの民家の屋根の上かもしれない。
通りを歩いて人目につくのはまずいと思ったのだろう。
私は目を閉じたまま何も言わず、風間様の胸元の着物を握り締めていた。

「ナマエ、もう良い」

そこにきてようやく、風間様は私に目を開けるよう促した。
ゆっくりと目蓋を持ち上げればそこには、闇の中、月明かりを背にした風間様の顔があった。

風間様は、今まで見たこともないような顔をしていた。
悲しみとも怒りとも違う、不思議な表情だった。
私は唇を開いてみたものの、何を言えばいいのか分からず口籠った。
余計な手間を掛けて申し訳ありません。
それとも、助けて頂いてありがとうございます。
私が言葉に迷っているうちに、風間様は呟くようにこう言った。

「帰るぞ」

その一言に、救われた気がした。
まだ私の帰る場所があるということに、安堵した。

風間様が屋根伝いに、姫様の屋敷を目指す。
その安心出来る腕の中。
張り詰めていた気が緩み、程よい揺れも相まって、私の意識はゆっくりと落ちていった。


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