赤い弧線[4]
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「さてと、行こうか」

彼女はそう言って踵を返すと、オフィスを背に歩き出した。
俺はその後に続く。

まだ定時を回ったばかりだからか、退社する社員はそう多くない。
途中数人とすれ違いながら、俺たちはエレベーターホールに向かった。
こつん、こつん、と彼女のヒールの音が規則正しく響く。
決して甲高くないその音は、俺の耳に心地よかった。

「私の知ってるバーでいい?居酒屋よりも静かな方が好きそうな気がしたんだけど」

半歩前を歩く彼女が、肩越しに俺を振り返る。
珍しい角度から向けられた視線に緊張しつつ、俺は頷いた。
よかった、と笑った彼女が再び前を向く。
背中で揺れる髪が新鮮だった。

彼女は一体どういうつもりなのだろうか。
初めて会った時から消えない疑問が、頭の中を渦巻いた。

どうやら彼女には、土方部長という恋人がいる。
外見、社会的地位、経済力、どれをとっても平均以上の、申し分ない人だと思う。
そして彼女もまた、詳しいことは何も知らないので分からないが、見たところそれなりの立場と収入を持った自立した女性のようだし、かなりの美人と言える外見をしている。
そんな彼女が何故、一介の平社員である俺に声を掛けてくれたのだろう。
正確には、あの日何故口づけをしたのだろう。

いや、分かり切ったことだ。
彼女にとってこれは、単なる遊びなのだろう。
餌に食いつく魚みたいに、ふらふらと近寄った俺。
ちょっと味見をした彼女。
もう一度会ったから、もう少し遊んでみよう。
きっとそんなところだろう。

「…斎藤君?」

自分の考えに耽っていた俺は、名を呼ばれて慌てて顔を上げた。
そこには、いつの間に来たのかエレベーターに乗った彼女が、一向に乗ろうとしない俺を見て首を傾げていた。

「申し訳ありません」

俺は急いでエレベーターに乗り込む。
俺を待ってドアの開ボタンを長押ししてくれていた細い指が、今度は閉ボタンを押した。
俺と彼女の二人だけを乗せたエレベーターが、緩やかに降下を始めた。

その時だった。

階数ボタンの前に立っていた彼女が不意に振り返り、俺の胸元を押した。
さして強い力ではなかったが、その全く予期せぬ行動に、油断していた俺はよろめいてエレベーターの壁に背中を預けた。

「、な…っ」

しかし、何を、と聞いたはずの声は音になることなく。
目の前に迫った赤い唇に吸われて消えた。
口づけられている、と気付いた時にはすでに、俺の舌は彼女の舌に絡めとられていた。

「…ん、」

口内を掻き乱され、息が漏れる。
いつもより、苦味が薄かった。
その代わり、僅かに花のような香りがした。

時間にして、僅か数秒の口づけ。
だが、いつ止まって誰が入って来るとも分からないエレベーターの中という状況に、言い知れぬ興奮を覚えた。

唇を離した彼女が、最後に俺の唇を舌で舐めてから身体を離す。
その次の瞬間、1階についたエレベーターのドアが軽快な音を立てて左右に開いた。

こつん、と音を響かせて、彼女がエレベーターから降りる。
揺れた長い髪を放心したように見送った俺は、慌てて壁に預けた背中を浮かせ、その後を追いかけた。


あの、僅かに香った花のような匂いは彼女の口紅の匂いだと、俺がそのことを知るのはもう少し先の話だ。




赤い弧線
- その奥には甘い舌と苦い香り -


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