赤い弧線[3]
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「お待たせ、斎藤君」

そんな俺の意識を一瞬で掬い上げたのは、待ち望んでいた人の声だった。
はっとして腕時計から顔を上げ、オフィスの入口に視線を向け。
そして俺は固まった。

そこには確かに彼女がいた。
だがその姿は、決して想像通りではなかった。
午前中に会った時と同じスーツ、肩にはA4サイズのファイルも入りそうな、いかにも働く女性のためのようなバッグ。
そこまでは、いい。
問題はここからだ。

社内で見かけた時はいつだって後頭部で纏められていた髪が、今は全て下ろされている。
想像していたよりも長い髪は僅かに波打ち、毛先が胸元で揺れていた。
そして何より、その唇だ。
俺は女性の化粧などには全く詳しくないが、それでも普段との違いに気付かない訳にはいかなかった。
今朝はほんのりと色付いていただけだった唇が、今は真紅に染まっているのだ。
いつもとは異なる口紅をしているのだろうか。
かつて見たことがないほど、妖艶な色だった。

艶やかな赤色が、そっと弧を描く。
俺は先ほどの濃厚な口づけを思い出し、顔が発火するのではないかと慌てて俯いた。
高鳴る鼓動が煩い。

「あれ、まだ終わってなかった?」

椅子から立ち上がったきり動けなくなった俺を見て、彼女が首を傾げる。
俺は慌ててビジネスバッグを掴むと、彼女の方へと一歩踏み出した。

その時になってようやく、オフィスの空気が乱れていることに気づいた。
それとなく辺りを見渡すと、誰も彼もが驚いた顔をして俺と彼女とを見ている。
新八などに至っては、口を大きく開けた間抜け面だ。
無理もない。
突然、新八や左之に言わせれば極上の美人、とやらの女性が現れ、あろうことか女性関係の噂など全く立たない俺を名指しで呼んだのだ。
俺はいよいよ気恥ずかしくなり、長い前髪で顔を隠すようにオフィスを横切った。

入口に佇んでいた彼女は、男性社員から向けられる好奇の視線も、女性社員の潜められた声も、まるで気にしていない様子で俺に向かって笑った。
艶やかな唇が目を引く。
思わず凝視してしまった俺に気づいたのか、彼女は目を細めた。

「それじゃあトシ君、ちょっと借りて行くね」

彼女は少しだけ声を張って、オフィスの奥にいる土方部長に声を掛けた。
オフィス内のざわめきが一層大きくなる。
当然だ。
この部署に、土方部長をトシ君、などと呼ぶ人は誰もいない。

「ああ、気をつけて帰れよ」

土方部長は、さも当たり前といった口調でそう返した。
俺は黙って頭を下げる。
土方部長が何を考えているのか、正直理解出来なかった。
いくら仕事の話だと思っているとはいえ、こうもあっさりと自分の恋人が他の男と二人きりになることを許すものだろうか。
それとも、信頼しているのだろうか。
俺には分からなかった。
ただ一つ分かっているのは、彼女はともかくとして俺自身は、土方部長の信頼を裏切っている、ということだった。


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